2012年2月13日

うんざり。

雪に埋もれたハクサイとダイコンを掘る。雪海原を見ると一回目のうんざり。尻をたたいて歩を進める。足が沈んで長靴の中に雪が入って二回目のうんざり。

まずはハクサイをめざす。去年、定植が少し遅れたせいなのか結球していないものが多く、目指すハクサイがどこにあるのかわからない。目印の棒が自分でつけたのにもかかわらず、あいまいなのです。ここで三回目のうんざり。何万年後の人類への目印を妄想すると、気が遠くなる。放射線注意の看板にはいったいどのような言語を使用すればよいのだろうか。とにかくハクサイを目指して雪を掘るしかないと再び、尻をたたく。

まだかよ、地面はまだかよ。とここで何回目かのうんざり。(すでに数えることを断念)
が、無限は我々の頭の中にしかなく、土があらわれ始める。(うんざりはいったいいずこへ?)

再び訪れる色の世界!

もはやうんざりすることにうんざりしている。次のダイコンへ向かう。ダイコンはハクサイとは異なり、地面から引き抜いてモミガラと土と積雪で冷蔵状態にあり、記号もとい、目印もちゃんとつけてあるはず。やはり明確な目印はすでに現物たる棒が不要となっている。(絶対的な記号として記憶されている)もはやうんざりな私にはそれ以上うんざりすることがないかのように足取りが軽い。
除雪車のつくった雪山。後方の棒は避雷針。
体も温もり、体がすでに雪堀のだんどりを記憶していて、なおも目印の棒、明確にして私はすでにうんざりではなくダイコンである。
一服。
マウス。で雪をクリック。
背負子でダイコンを運ぶ。30㌔はありそうだ。重たい体が雪に足をとられる。二回に分ければよかったと思うが、なんとかいけそう。と尻をたたき続ける。うんざりが尻を叩いているではないか。もうだめだと立ち止まりひざに手を載せてはあはあ自分の呼吸を聞く。目を上げると干したままの大豆が目に入る。白ばっかりに再び、色の世界が。ああスズメはよろこんでいるだろうなあと、柄にもなく思う。

私という現象(宮沢賢治)はあいかわらず、意識そのものと自然そのものとの間で漂っている。





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