2012年1月29日

大脳までもが老いるということを想像できなかったのか。

構造主義とかポストモダンだとか、哲学的な問題だとかにひっかかるようでありながら、いざそれらが何を指すのかということを考えてしまうと、どこから入っていいのかわからなかったり、個別の用語が
説明者によって微妙に違っていたりして、時間だけが経過してしまったという感じだ。何かを考えたい盛りの若者が最初にぶつかる壁のようにしてあったのだった。そうした感じはもしかしたら簡単にわからないと言えなくなるような装置として、少なくともこの日本ではジャンルとして置かれていたのではないかと最近になって思う。種としてのジンルイであるとか人間であるとかの表現自体がいわば本来普遍的な一般名詞であったものが、それを考える主体としての個人しか指さなくなってしまったのではないのか。普遍を記述する物がそもそも一個のモノになってしまっている。そこには当然のこととして長年積み重ねられてきた言語活動の中で抽象化されてきた意味そのものの否定が含まれてしまうのではないか。意識が肉体を否定したというか。こうした活動記録そのものが想像されるしか手がないものとして時に文学そのものの構成要素であったと思う。人間の外にたった元人間はいったいどこに立っているのであろうか。ついに最近の若者はという言い方が消えたのだが、成長の止まったままの最近の若者がついに初老を迎えつつあるのであった。

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