2011年5月12日

福島第一原発のように


冷たい雨のせいもあるのだろうが、与呂見地区の古老たちの姿が全く見られない。年齢のせいもあるのかとも思う。仕事が体に身についているから雨の日に畑仕事を無理にすることもないのだろう。静まりかえった畑が雨をさらに冷たく感じさせる。そしてトラクターが田んぼの中ではまってわれらだけが右往左往していたのだった。最初に二トントラックで引っ張るも数日来の雨模様でぬかるんでいるフィールドではまり、その二トントラックを軽トラで引っ張るもびくとも動かない。結局ハイエースをもってきて二トントラックを救出し、ついでに田んぼではまっているトラクターを救出したのだった。
そして何事もなかったかのように野良仕事に復帰する。いろいろ毎年あってまるで、数年前と同じ場所で同じ救出劇をしていたなあと思い出すと田んぼにはまるというトラブルも突発的なわりにその状態で安定しているという不可思議な状態であるのだなあと思う。
ここで一気に妄想は飛躍して人類というものも、こうした突発的な状態そのものである意識(宮沢賢治ふうに言えば、現象であろうか)が目に見えないことに耐え切れずに生み出したトラブルとなんの変りもしない、ほんとにたいしたものではないのだと思えてくる。ただのジンルイという名前にすぎないのではないかと思えてくる。…のだった。
それを私という何を指すかが全く見えてこない代名詞にて考えているのだから、すなわち私は何かの代わりに過ぎないように思えてくる

与呂見 諏訪神社にて

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