2011年4月26日

すばやい対応


原発のニュースに接するだけで感情的になってしまいます。冷静に怖がれなどと言われても、余計に冷静さを喪失してしまいます。喪失した思考力を復旧させようとして頭を外気にあてて冷やしても一向に理性は戻ってきません。冗談のような薄笑いをすることで、意識は正常に運転されているとかろうじて思えます。大震災によって私の意識も壊れたのでしょうか。そんなことあるのでしょうか。
起立
もしかしたら私は正常であると思うことによってだけ意識は成立しているのではないのでしょうか。又こむずかいいことだと言うのなら、あえて言いたい、原子力発電に関していったい誰が全体を総覧しているのか、どこに全てを理解している人がいるのか。

きっと答えは頭がいいと言われている科学者の頭の中にあるイメージに過ぎない妄想とも言いがたい(何故ならこの科学者以外にこの科学者の考えていることを理解できるものがこの地上にいない)思考の中にだけあるのだろう。私の正しさを私自身が証明することができないということと同じレベルにそれはあると思う。
着席

だからこむずかしい単位のほとんどが人名を冠している。キューリー、ベクレル、レントゲン、、、(よく知らないが我が身をもって放射能を浴びた人たちなのではないだろうか)
人工的な放射線がこの地上に出たということは、われわれが思考する以上に大変なことなのではないのだろうか。これこそ文字通り想定外なのではないのか。私の怖いという感情はDNAの遺伝情報を破壊するとか、ガンが増えるだろうなどの知識からやってくるのではなくて、これまでの全構造を変化させた現実に対応できないでいるわれわれの一個一個の個体が叫ぶ悲鳴なのではないだろうか。もはや変ってしまった私が変る前の私のことを覚えていられるのだろうか。

小さな蛙を見よ 

すばやい対応などできるはずがない。すばやい対応には、必ず自己否定が伴うのだから。カメラを不意に向け瞬間にポーズをとることのできるYこさんほどの域に達して始めて実現可能な行為なのである。Yこさんの情報によればソフトバンクの孫さんが脱原発を正式に表明したらしいそうですが、やっぱりこの漠然とした怖さに対抗するには思考ではなくて実践なのだ。

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