2011年1月20日

正法眼蔵を読む


1月17日18日に兵庫県安泰寺の住職、ネルケ無方さんを迎えて現成公案の勉強をしました。正法眼蔵は曹洞宗を開いた道元禅師が書かれたテキストです。禅のテキストですから法の本質を指摘する部分の難解さを頭の中でイメージするしか手がありませんでした。勉強会に参加した人たち同士でディスカッションをする時間があるのですが私は常に中途半端な物語としてしか理解したことを言えず、さらに考えようとするとイメージさえ言葉に容易に変換されたように見え、結局自分の脳裏に写る文章をぼそぼそと音読しているような状態でした。もとより正法眼蔵に何が書かれてあるのかを知りたいはずなのですが、講師である無方さんに具体的に何を尋ねるのかすら思い浮かびませんでした。よくあるパターンですが何がわからないのかがわからない幼稚園児のようでした。(幼稚園児ほどの純粋な好奇心があればいいのですが、実際に考えていることは何とか自分が本当の自分になりたいという欲望しかないように思います。)無方さんの著した新潮新書が近日、出版されましたがそのテキストの中にも確かにそのような文言がありました。本当にこういう自分が勉強会の場にいることが恥ずかしかったです。こういう言い訳が全く無方さんは届かないんだと思いますがやっぱり言っておきたい。
正法眼蔵の勉強会は毎年冬になると他のお坊さんを招いて行われるのですが、いつも同じ言い訳が重なります。素直にテキストの中の文言に対しての質問をしたいのですが、どうにもクリアーにならない自分でありました。でも無方さんが今日(1月19日)龍昌寺を去りましたがそのような堂々巡りがあっさりと消えてしまうのが不思議です。残り香すらありません。そして又いつもの自分探しが反省と悔恨を引き連れて始まるのです。どうにも何を勘違いしているのかがわからないどころか、この強烈な自我は自分自身を否定することが絶対にできないのだとおびえた目をして小さな声でぶつぶつと呟いています。
あまり真正面から見れませんでしたが、無方さんの姿はこうした臆病者の典型を私の思いの中に示してくれます。全く無方さんの意図するところであるはずがないのでしょうが、自己否定を肯定し続ける私にほんのわずかな光明を開いてくれたように思います。小さな窓が閉じないうちに外に出ようと思います。




上の画像は2010年五月の勉強会のものです。
(講師はよろみ村 龍昌寺 住職 村田和樹)



                                           

                               


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