2013年7月18日

読書感想文。蕪村句集。

 久しぶりに本を手に取り読む。蕪村句集。明治のスター俳人たちの解説がすこぶる面白い会話体をとっているのを読むと明日にさしつかえると、太字になった句のみを追う。月並みという批評が再三入るようではあるが、子規の言わんとしたように、数学的に五七五の17文字の組み合わせには限りがあるであろう。
 が結構長く続いていて、今も尚、この詩形に魅せられている人は多い。想像するにまったく同音同意義の二つの句も、読む人によってまったく違うテキストと感じるのではないか。わたくしが今日思うことは、製作者の視野に絶望がかぶさっているのかどうかが分岐点であるということ。その絶望は他の誰でもない文字をつらねた製作者自身のものでなければならない。自己が自己に対面する時、このような感情をまず一番に感じないものは作句をしても意味がない。
 そして、詠ずるだけでは不完全な形体でもある。必ず書かなければならない。伝わるのはその時、その場所での感情そのものではなく、彼自身が出会った自分自身の絶望そのものなのである。もはや、時間が彼なのであり、場所が彼自身なのであるのだから。その時、その場所で立っていた自分自身、その全体を過不足ゼロで納めることができる!そして詠ずることができるならば最高だ。
 長く、伝承されてきたものは、こうした形式そのものが書かれたという事実そのものなのかもしれないのである。技術的に申すならば、助詞に厖大な責任が課せられていることがわかる。レトリックに限りなく近いが、そうではない。一語一語の倒置やあり得ない終止形など、技ではなく、わたくしの今のこの思いを形にするという義務が課せられた、出来上がった形からわたくしが表現されてしまう、いかなる知識や新規な感覚もここではまったく関係が無い心そのものが、それぞれの孤独な場所で形作られる形式に、技術など入り込むわけがないではないか。
 絶望を希望に転倒させるためにあるのではなく、絶望を絶望のままに書きとどめることができるのだと思う。まったく知らなかった自分が発見されるのである。あるいは、見ていなかった。あるいは気付かないふりをしていた自分。
 今さらながら、語彙を増やすよりは、助詞の力を感じながら、ネイティブとしての日本語を客観的に見て行けたらと思う。

日雇いに 明日も行けと 暦言う

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