2013年1月25日

漱石は文豪ではない。

俳諧というメディアは、なんだか不親切に思える。パクッと私とも言えない私の瞬間を切り取ったかのように、あらゆる説明解釈を容認しているように思える。ということはどのような真実も私に関する限り無いと言明しているようなもんである。それに明治時代の俳人たちは、文字に関するエリートでもあるのだろうから、彼らが解釈を施せばほどこすほどに蕪村の俳句は奥深さを匂わせてくる。集中して読もうとして、まわりが静かだからといって文字面に集中できるわけでもなく、また、その気になれば、テレビがうるさかろうが、ぐぐっと入ってくる。誰も俺が読むことを邪魔なんかしていない。ということがわかる。文字のエリートのすごさは、所有している語彙の量や質ではなくて、文字に対する態度以外にはないのだろう。言葉を持つということがとてつもなく責任を課していたのだろう。以外に漢語の間違いを頻繁に犯していたのではないか。(こんな風に)
 そんなアナログな中、アンドロイドタブレットにて青空文庫の漱石を読んでいる。文字の大きさを変えればたちどころに、行数が変化する。字を大きくすると、やけに漱石の生々しさを感じたりしそうになる。あくまでも気のせいの世界のことを言っているのだから、それってほんとう?って聞かないでほしい。やけに津田はずるいやつだし、延子も。なんてこずるい夫婦だろうかと思う。小林はなんと、か弱い男かと思う。か弱いなんてもんじゃないな。なんとモロい男にしか見えない。だから津田を攻めきることができずにふんとに中途半端極まりない展開だ。吉川のおばはんが、なんとか場を展開させようとしているが果たしてどうだか。漱石は出ることかなわない迷宮に自家中毒していたんじゃないのか。なぜ、人にはFACTとFEELが同時に存在するのかが、数学的に理解できなかったのじゃないか。あの執拗な内面分析とセリフの連続自体が尋常ではない事件だと思う。
 蕪村句集講義にて、正岡子規が言っていた。「蕪村は読めば読むほどおもしろい」漱石もそうだよね。

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