2012年11月14日

薫習。(燻習)

 炭焼きがもうすぐ始まる。昨日の土というか、泥というか、粘土というか、地球の表土というのか、とにかくそのそれに溜まった雨水を混ぜて、ゴム手袋をはずして、素手でこねていると夢中になっていった。元気になった。何が元気になったのだろう。体であることは間違いないが、ちょっと違う。頭ともいえる。でもそれも違う。昨晩は、土はあそこのを採取して、水は学校の水道からバケツで運べばいいなと、段取りをしていたのだ。炭窯に来るとmurataj住職の言ったとおり、土はある。水も警報が出るほど降った時雨がたまっているのだった。風と雨は激しいが、炭窯は何年か前に修繕がほどこされていて、一滴ももれていない。最初は、修理する部分からかきとった土に再び水を混ぜて使っていたのだが、だんだん、なくなりそうになり、中学校側のグラウンド脇の斜面をパノラマで首を振って探す。でも足元からちょうど畳の縦の長さの距離ぐらいに土が見える。色もhaginoさんが言うように黄色い。小さなくわ(正式名称があるのか?)で削ると適当な細かさの、均一な土がとれる。枯れそうなロゼッタ状の雑草が混ざるが、ナントカ壁は田んぼで寝かした泥に稲ワラを細かく刻んだものをいれるではないか。それが、名もない雑草に変わっただけ、と思う。いいかげんとええかげんは違うのだ。田んぼも完全に水を漏らさなければ水が腐るし自然とともにあるより手がない原始産業として、炭窯はエントツ以外(地)で完全に空気を遮断してしまえば、火を容易に魔物に転化させることができるのである。ふうっ・よくしゃべる。シャベル。どこかちょうどよいもれがあって生活は成立していたものと推察する。
 夢中になったのは、そういう世界とのふれあいに喜ぶ、わが自意識がであり、わが自意識をである。 とはいえ、テキストによる勉強も忘れまい。kanazawaのhataoさんがわがために、(^^)超簡便な啓もう書をつづってくださっておられる。実際に火入れのせまっている現在こそ、そうした誠実で確実にだれかに向けられている文章が薫習されやすい。(薫習という語が大乗起信論にあり、このあいまいきわまりない語からすべての心と意と識の説明が始まる)いつのまにか、という感じでしか現在を説明できないのです。風がなければ薫らない。壊しては、また作りなおせる。永遠に繰り返すことができる。が、しかし、今、現にここにある、これまでにもずーっとあり続けてきた。ものだけでできる。その喜び。

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