2017年11月29日

研究と表現のかい離について  

 
 マルクスがどうにもわからなかった研究対象は貨幣だが、貨幣自体の意味がわからなかったのではなく、(むしろそんなことは瑣末なことにすぎなかった)なぜ貨幣は貨幣なのかということであった。貨幣の理解不能性を実感したそのプロセスそのものが謎だった。 謎を謎たらしめるために表現した「資本論」自体の謎を通じて今度は私がその謎を続けることができる。問題は物そのものではなく物を物たらしめる関係性である。
 「私の弁証的方法は、ヘーゲルとまったく逆なのだ。ヘーゲルの場合思考の過程こそ、現実にあるものを作り出す中心であって、現実にあるものは、思考の過程とは何の関係もないのである。しかもヘーゲルは、思考の過程をイデ―という名前で独立した主体に変えてしうまうのである。逆に私の場合、イデーなるものは、人間の頭脳に移転され、移し替えられた物質的なものにほかならないのだ

内山禅師のテキストのイメージを再び引用したい。この二つの図ですべては氷解する。何もわからないということを!私たちはまだ見ぬ未来に向って幾度でも進化することが可能だ。