3日ほど、高熱にうなされておりました。母が熱にさいなまれているのを、これ長年の不義理の詫びと病院に連れていって以来です。母はどうやら新興宗教(母は宗教ではないと言い張る)の仲間がムリをして会合に来たのをうつされたらしい。
頑丈な私の貧弱な精神にとって、大脳が熱に犯されていることは耐えがたい。軽いパニックのような状態になる。臭覚と味覚が全く失われていることがさらに、不安を増す。かろうじて感じられる事象が、かつての意味を失い、さらにはそれらの展開している未来も、ただただ不安であるというその一点を薄暗く素通りしていく。
頻繁に測定する体温の上昇で、こりゃ病院にいくしかないと電話する。地元の病院には医者がいなかった。市立病院に電話すると、まず大丈夫ですかみたいな気持ちが伝わってきてほっとする。正常ではない今の方が、人の気持ちのあるなしに素直に反応している。インフルエンザをご心配ですか。でしたら、10時間ほどの潜在期間がありますのでと言われ、即座に今すぐに行かない方がいいとわかる。その旨を伝えると、その通りですが、もしもつらかったらいつでもおいでくださいと説明され、安心して市販薬を飲んで眠ると、断続的ながらも深く眠れた。飯を食うことと、眠ることはなんて大事なんだ。と思う。
大脳が耐えているのだろうか。私という精神が耐えているのだろうか。もちろん私の大脳である。考えているのは私なのだろうか、私の大脳なのだろうか。熱にうなされているのはもちろん大脳の方であろう。大脳は自分自身に対することばを持っていないからわからない。なんてことを延々と考えていた。おそらくもって生まれたくせのようなものだろう。
体温も戻り、頑丈な胃袋が飯をほしがっている今、ふりかえってみました。風の菌は細君にうつりました。零細家内企業のパートであるせいか、満足な休みもなく連日働く彼女が倒れている様をみるのはつらい。母の宗教なかまを一瞬うらむ。待てよ。問題はそんなところにはないぞ。仕事のないこの季節、彼女の稼ぎだけがたよりなのである。思えば、細君は私のような出口のない妄想にあけくれるひまもなく、子育てから家計までを心配しぬく日々をもう何年やっているであろうか。
追記。
A・トインビーの「試練に立つ文明」がおそろしくすらすら読める。ギリシャローマさらにはラテン語による研究、オックスフォードなどなど目もくらむような知の傑作などという先入観を捨て、俺見たいなあほはあほとしてすなおに読めや、と思って読んだせいかしらん。そして衝撃的な一節に目が止まる。(事の真偽はこの際どうでもいい)
「われわれはおのれの文明のみが世界唯一の文明であると夢想する地方文明の、真にわらうにたえる奇想天外の二つの実例にぶつかるからであります。
まるで夢のような話ですが夢ではなく、日本人は自分の国こそ「神国」であり、従って外敵の侵入には難攻不落であるということをほんとに信じていたのであります。(ところがその日本人自身は、不幸な北欧人種の「むくつけきアイヌ」こそいい迷惑で、この人種を追い払って、そう古い昔の話でもなく、まんまとそのあと釜にすわりこんでいるのです。)日本が「神国」?まさか。だって紀元1500年の日本は、シナではとうの昔、紀元前221年の始皇帝がシナをそこから救い出したところの、教化能力も何もない一個の無政府的な封建社会だったのです。シナがあれほど遠い昔に独力でやってのけたことを、日本はシナから拝借した世俗的文明と、またシナ人の御世話によって伝えられたインドの高等宗教の御馳走を1千年近くもまんまと満喫したのちでも、なおかつ成就することに失敗しているのであります。」
長年タブー化してきたことが、かくもあっさりと言語化されていることに素直に驚いたのでした。つよがりだけど、わざと、あえて、成就させなかったから続いているんだ。お前自身が心配しているようにお前自身の西洋文明の方があぶないわい。まだもうろうが残っているな。おまえらは不安そのものだから言語も文明も強固だ。しかしこっちはどのようであれ、うたうんだ。不安のかけらもないんじゃ。まだもうろうとしているな。風邪のおかげで、休めるだろう?私の大脳よ!
2014年1月21日
2014年1月13日
正法眼蔵勉強会2日目。
どのような日常的な行いも出来事ではあるが、この出来事という言葉は重要な意味を持たされはじめている。哲学のテキストに、あるいは呪術師の発話にと。重要なという意味は特殊なという意味に屈折し、特殊はいずれはユニークつまりは唯一に微分される。
宗則さんは、昨日、入浴前の雑談にて、「正法眼蔵ほど、おもしろい話はありませんからね」と言われました。正法眼蔵に対するイメージに仏教ということと、お坊さんということがこびりついています。どのようなテキストとも共存できない特殊な世界の特殊な言葉が書かれてあると思う私にとっては、これをお話や小説、もしくは物語にできないというへんな自信があります。いわんやテキストなどと呼べるはずがないと。かたくなさは、この固さは仏教やお坊さん、法としての経典(こんな言葉は使いたくないのだが)を思考することを妨げていると思う。形而上学を入れると尚更、味わいにくくなる。
しかし、私は形而上学をまったくわかっていない。余裕を持ってわからないと豪語している。なぜわからないことがわかるんだと、自分の大脳に問いかけてみたくなる。何一つわかっていないということを知ることができるということはすごいんじゃないだろうか。わからないその人はなぜだか、とてもうれしそうに笑ってすらいる。こんな私でも、チベットがいまだ中国軍から侵略されていない時代のお坊さんの笑顔と、中国政府がポタラ宮殿を金ぴかに補修し、どこぞの僧院のお坊さんの迷いに満ちた素顔との差ははっきりとわかる。正法眼蔵にも、わからないということのままに生き、なおも法を求めるからこそ、ここまで法は伝承されてきたのだということが実際の禅師と弟子との逸話(これは物語ではなく、実際にあったこと)を通じて記されてある。
私が得度した時、習わしとして、釈迦牟尼仏を起点にして、歴代の禅師の系図を筆で書かされました。ただでさへ、出家してお坊さんになるということにド緊張していた私の驚きを察してください。思わず、村田住職に言いました。「つながっていたんですね」「文字のない時代なのに?」私は系図の最後に村田住職を書きました。私の持っている手がきの系図の中の和樹さんは、私が弟子をとらない限り、私の手がきの系図で終わってしまうことを知りました。(システム的にです)
やがて呪術的なムードは去りました。私は呪術のことなどまったくわかりません。岩波文庫の正法眼蔵第一巻末尾の法系図は幹にある大師しか記載されていないのですが、枝葉を入れると厖大な法伝承者がおられます。それら全部の禅師が記載されたものがあるのだそうです。村田住職の正式な弟子は現在4人いますが、この全員が弟子を持たないと村田住職の名前が書かれた系図は4枚しかないということになります。
あきらかに、昨日の記事はわたくしの構築した物語にすぎません。確かに法は語られましたが、さて法はテキスト化されていますでしょうか?今日の輪講で、お坊さんということが話題に上りました。「私はお坊さんじゃありませんから」と宗則さんが言われたのは世間でいうところの葬式などの儀式をとりあつかうことを主たる行いとするお坊さんではないという意味なのでしょうが、私はここでも、そうは言っても、歴代の祖師のごとく、ブッディストであり、ほんとうのお坊さんなのでしょうとつぶやくのでありました。私が私になりきった時、私を私と名指す差異はどこにもないのですから、私はもはや、なにものでもありませんとおっしゃっているのにもかかわらず。
何度でもわからないんだあと顔に手をあて、その舌のねもかわかないうちに、がんばっておれもわからないをわかるんだと傲岸な顔をしているのでありました。しかし、私は私の顔を私の視線でもって見ることができないのでした。そのことを知っているのでした。
宗則さんの提唱
多処添些子(たしょてんしやす) 多い所にちょっと足す=大悟
少処添些子(しょうしょてんしやす)少ない所にちょっと減らす=劫迷
道元禅師は、言葉を二重に使う、同じ言葉を別なところで違う意味で使うのだそうです。「気楽に読み物のようにして読書したいのですが、古文の知識などを補いつつ解説しているうまい参考書はありませんか」と尋ねると、「ありません」「水野先生の脚注で十分です」村田住職は、んなもんあるわけがないみたいな顔をされました。ですよね、「道元禅師の表現なんすもんね」とたかをくくったのでありました。「宗則さんは、それこそ、40年間、何度も何度も自分の頭で読んできたんですから」「わしなんか、3行で終わっちまうところを、道元さんはこんなに厖大な文章を残しておるんやぞ」
それにしても、わがメモのひらがなのなんと多いことか。文字じたいを知らないのでありました。
特記 宗則さん、村田住職ともに、「正法眼蔵は道元禅師の表現なんですよね」に対して「そうです」 とおっしゃいました。
2017年8月19日 訂正
村田和樹の正式の弟子は4人ではありません。ご子息もお弟子さんでした。遼雲さんが、きっと法をつぐのではないでしょうか。あるいはもうついでいるのではないでしょうか。
宗則さんは、昨日、入浴前の雑談にて、「正法眼蔵ほど、おもしろい話はありませんからね」と言われました。正法眼蔵に対するイメージに仏教ということと、お坊さんということがこびりついています。どのようなテキストとも共存できない特殊な世界の特殊な言葉が書かれてあると思う私にとっては、これをお話や小説、もしくは物語にできないというへんな自信があります。いわんやテキストなどと呼べるはずがないと。かたくなさは、この固さは仏教やお坊さん、法としての経典(こんな言葉は使いたくないのだが)を思考することを妨げていると思う。形而上学を入れると尚更、味わいにくくなる。
宗則禅師。 |
私が得度した時、習わしとして、釈迦牟尼仏を起点にして、歴代の禅師の系図を筆で書かされました。ただでさへ、出家してお坊さんになるということにド緊張していた私の驚きを察してください。思わず、村田住職に言いました。「つながっていたんですね」「文字のない時代なのに?」私は系図の最後に村田住職を書きました。私の持っている手がきの系図の中の和樹さんは、私が弟子をとらない限り、私の手がきの系図で終わってしまうことを知りました。(システム的にです)
やがて呪術的なムードは去りました。私は呪術のことなどまったくわかりません。岩波文庫の正法眼蔵第一巻末尾の法系図は幹にある大師しか記載されていないのですが、枝葉を入れると厖大な法伝承者がおられます。それら全部の禅師が記載されたものがあるのだそうです。村田住職の正式な弟子は現在4人いますが、この全員が弟子を持たないと村田住職の名前が書かれた系図は4枚しかないということになります。
あきらかに、昨日の記事はわたくしの構築した物語にすぎません。確かに法は語られましたが、さて法はテキスト化されていますでしょうか?今日の輪講で、お坊さんということが話題に上りました。「私はお坊さんじゃありませんから」と宗則さんが言われたのは世間でいうところの葬式などの儀式をとりあつかうことを主たる行いとするお坊さんではないという意味なのでしょうが、私はここでも、そうは言っても、歴代の祖師のごとく、ブッディストであり、ほんとうのお坊さんなのでしょうとつぶやくのでありました。私が私になりきった時、私を私と名指す差異はどこにもないのですから、私はもはや、なにものでもありませんとおっしゃっているのにもかかわらず。
何度でもわからないんだあと顔に手をあて、その舌のねもかわかないうちに、がんばっておれもわからないをわかるんだと傲岸な顔をしているのでありました。しかし、私は私の顔を私の視線でもって見ることができないのでした。そのことを知っているのでした。
宗則さんの提唱
多処添些子(たしょてんしやす) 多い所にちょっと足す=大悟
少処添些子(しょうしょてんしやす)少ない所にちょっと減らす=劫迷
道元禅師は、言葉を二重に使う、同じ言葉を別なところで違う意味で使うのだそうです。「気楽に読み物のようにして読書したいのですが、古文の知識などを補いつつ解説しているうまい参考書はありませんか」と尋ねると、「ありません」「水野先生の脚注で十分です」村田住職は、んなもんあるわけがないみたいな顔をされました。ですよね、「道元禅師の表現なんすもんね」とたかをくくったのでありました。「宗則さんは、それこそ、40年間、何度も何度も自分の頭で読んできたんですから」「わしなんか、3行で終わっちまうところを、道元さんはこんなに厖大な文章を残しておるんやぞ」
それにしても、わがメモのひらがなのなんと多いことか。文字じたいを知らないのでありました。
特記 宗則さん、村田住職ともに、「正法眼蔵は道元禅師の表現なんですよね」に対して「そうです」 とおっしゃいました。
2017年8月19日 訂正
村田和樹の正式の弟子は4人ではありません。ご子息もお弟子さんでした。遼雲さんが、きっと法をつぐのではないでしょうか。あるいはもうついでいるのではないでしょうか。
2014年1月12日
正法眼蔵勉強会1日目。
左 櫛谷宗則。 右 村田和樹。 |
まさやさんが私に向ってストレートに言われます。「宗則さんを坊主であるとか、そういう風に見ることは違います。あくまでも、ぼくたちと同じなんです。仏法の話における言葉は、にしかわさんが意味づける言葉とは違うんです。むしろ言葉の出る瞬間、つまりは言葉そのものの前後における時間を見るということにおいて、ぼくたちと同じなんです」(意訳)
村田住職も言われます。「つくづく、仏法の話をする場が無いんだなあと思う」
あらかじめ、構築された私が身聞きし、意味づけする場に、宗則さんの言葉をすっぽりと当てはめていては、未来永劫、宗則さんの言葉は入ってこないのだ。
慈行さんが隣の席で言います。「言葉ってのは、ほんとうに、引っかかり安いものなんだ」
2年ごとに訪れる宗則さんの言葉がどんどん磨かれていくと、皆は言います。もう何度目でしょうか。あいかわらずの私に宗則さんは、またまた、同じ質問をされました。「なぜ小説を書くんですか」私はなんにもわかっていないんですと言いたいのに、そのことにしっくりする言葉が私の中にまるでない。龍昌寺の庫裏は、言葉が力を持つ。その力の前に、さらっとした読書などで得た私のボキャブラリーのおもちゃ箱の中を幼稚園児のようにしてがちゃがちゃと手をつっこんでも、何もない。とりわけ、私を楽しませるものが皆無である。
あれこれと思い悩む思いよりも、生命=いのち、今現在、この場所でも事実としてあるこのこれの方が、はるかに古い。いやはるかでなくてもいい。思いが生命のことをとやかく言うことの無力さはふつうに考えてもわかるはずなのに、驚くことはおろか、聞く耳すらないのである。積み重なってあるわけではなく、その都度、その都度なまなましい。
すかさず、まさやさんは言う。「ぼくがぼくのなまなましさに追いつけないんですよ」ムリなんですよ。だからこそなまなましいんですよ。
宗則さんの提唱。
「諸法の仏法なる時節」この一語で驚いていいんです。続くありありあり、断絶です。そしてなしなしなし、続いているんです。」庫裏に不怠(ふたい)という言葉が輝いておりました。これは怠けるなというよりも、怠けていられないということです。宗則さんが話すと、道元禅師もお釈迦様も身近です。おじいちゃんの何代か前という感じです。まるで言葉が宗則さんの身体を借りて降りてくるみたいでした。
追記。ここで書かれた言葉の時系列は私が編集したもので、各人の話した内容もかなり意訳いたしております。ですから、各人の意図とはまるで違う可能性が高いことをお断りしておきます。
道元禅師の歌が紹介されました。私としては以外でしたが、かなり多作であったとのこと。村田住職によれば、吉本隆明は3流と評価されているとのことです。
風もつながぬ
すておふね
月こそやは(夜半)の
さかりなりけり
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