2014年3月18日

猿山

  猿山を縦走。日本でも有数の雪割草(ここのは、キンポウゲ科のオオミスミソウ)は三部咲きでした。お父ちゃんがここ、皆月に居を定めておればここが故郷だった。
 コナラやケアキの原生林が大きく間隔をあけて生えている。春にシフトしたような太陽が差し込んでいてとても明るい。縦走の終盤、海が広がる。地球が丸い。
 ふもとに降りる。下界は草も、我先にと陣取り合戦のように込いっているなあと感心しました。帰りに実家に寄りお母ちゃんになぜ嫁としてあそこに行かなかったんだとせめる。それから嫁姑などの話になり、こちらからすれば当然の思いもあちらには全く通じないことがあるのだなあと、お母ちゃんの顔をしみじみ見た。
 どうにもならないのだなあと思っているとお父ちゃんが帰ってきて皆月の話になり、小説にもなっているし、人によってはあそこは犯罪者が隠れやすい地形で、ちょっと不気味なところがあるなあと、何気に言うと、父らしくもなくへらへらと笑いながら、昔、朝鮮人が海から上がってきたから、どこそこのなんとかさんが殺して、わしの家の田んぼに埋めたことがあってな、それからその田んぼはチョウセンタンボって言われるようになってな。「あんたもももしかしたら、殺人に手を貸したんと違うやろね」と尋ねると益々、父はへらへらとなって「違う違う」と茶化すのでありました。一瞬父がのっぺらぼうに見えたのでした。
 

2014年3月16日

民族。

 図書館で借りた『海女の島ー舳倉島』F・マライーニ を読む。舳倉島は輪島の沖合30キロぐらいのところにある天領です。(今もそうなんちゃうか)輪島市に属していて、渡り鳥の希少種も寄るらしくて、バードウオッチング愛好者や観光客も近年は多いと聞くが、ついこの前までは海士町(500年前ぐらいに九州から渡来したらしい)の人のものでした。別に脅すわけでもなく、法的規制に頼るでもなく、言うまでもなくあの島は彼ら彼女らのものだという印象はわたしだけではないと思う。
 海士町はほんの小さなブロックにあります。文字通り中上健次的な路地を彷彿とさせてくれます。身体能力に優れ(ローマ・メルボルンオリンピックにて銀メダリストを輩出)、小学生の時から煙草を吸ったりしていたり、中には秀才もいたが、総じて勉強嫌いで(高校を出た者がいじめられる)男も女も中学を卒業すれば海で飯を食べていく。私は気がついていなかったが、文字通り私のように輪島市民全員が彼ら彼女らを差別してきた。(わたしの印象に過ぎませんが、使用する方言が明らかに違うことや、マイノリティーであることは間違いのない事実です。)
 著者はイタリア人。最初はエスニックな裸の海女という興味からだったらしいが、いっしょに短期間寝食をともにして、もっと大きくておおらかなものを海女に感じ始める。本の口絵にウエットスーツが普及する前の薄い腰布以外は裸のままの肉感的写真が30枚近くあって、エロチックなものを感じてしまいました。しかし、それだけではないものも感じたのは確かなのです。その点は著者もうまく言い切れていないのですが、簡単に言葉にできるような人間の感覚では無いのでしょう。文化人類学的に日本人は元来裸に抵抗が無いというのは事実でしょうが、違うな。それだけじゃない。
 著者がふるさとのシチリアの同じような小さな漁村を思い出すが、欧米人の目に止まるエスニックというのは、海士町のように被差別と自覚しながらも、何世代にもわたって生きてきた強さ、きままに生きているように見えて、外部には知られることのない厳格なしきたりを素直に忠実に生きてきた歴史を持つもののことを言うのだろう。自分からエスニックを演じるナイーブな日本人の美しい日本なんぞ、とうの昔に見限られてるのだ。
 羽咋市出身の妻はその海士町の厳格なしきたりの中の厄払いの儀式に大勢の海士町の33才とともに参加したのでした。ナイーブな差別者たる私からすればおまえすげえなあーと、感心するより手がないのでした。海士町で風呂屋の姉ちゃんとして名前が知れ渡っているのです。ナイーブに中央に土下座する輪島市で海士町がどれだけ多様性への扉を担保してきたかは輪島市民全員で共有すべきものと強く私自身は思う。
 今私の住んでいる三井地区だって明らかに使用する方言が違う。とりわけ与呂見地区は三井町の南端、能都町と境界を接する地点にありなおさら輪島市市街地育ちの私からするとイントネーションや発語速度が違う。
 市街地育ちの私はお父ちゃんが門前町の秘境皆月出身で、お母ちゃんが能登島町出身のひ孫の間に生まれた、お父ちゃん側からは門前町系2世、(輪島市で3本指に入る商人だった)お母ちゃんのひいじいさんからみれば能登島町系4世なわけで、輪島市街はそうした2世、3世、4世のるつぼなわけです。市域全体の3パーセントの面積に全人口の半分近くが住む都市区域、文字通り都市なのです。
 輪島市という僻地は見方を変えれば農村地区を含めれば、その全体がマイノリティーの平和的共存という歴史を持つ、まれにみる多様性に満ちた場所なのだと私自身は強く思う。
                               
         blogger 2013年3月16日(最終更新:2021年11月22日)