2014年12月1日

摂心でした。

これまでならば、足がいたくないときはほとんど眠っているか、座禅に飽きていたし、足が痛いとなんとかして痛くならないか、あるいは痛くても我慢するか、考えることで時間はかなりゆっくりと進んでいた。今回の19時30分以降はこのどちらでもなかった。修行するといいうドラマも描けなかった。ほとんど足がつらかったのだが、我慢できる。ふと、菩提心がたりないのだということばが浮かぶとがまんできる程度の痛さが消えた。完全に消えたというのではない。次の今日最後のセッションでも通用する言葉だった。やったあと思った。

 家に帰り無方さんの勉強会のことをフェイスブックにのせるために、ついでに安泰寺のホームページを見ると蠟八摂心のことが書かれてあり、パラパラとページを見ているうちに、最前の喜びが消えた。

そして今、現在12月8日未明まで座り続けている人たちがたくさんいるのだと思うと、いてもたってもいられないが、とにかく今日は眠ろうと思う。

2014年4月13日

水と緑を守る市民連絡会は解散してません。

 資本主義は、もっぱら批判されるものとしてあるが、実はわれわれの意識の初期段階からわれわれとともにある。エコというコピーは商品に対するコピーでもあるが、われわれ自身がエコとともに生まれたのである。
 だから素直に正直に金を稼ごうとする行為そのものの欺瞞に気付けくことができない。自然破壊が開発とカテゴライズされ、無自覚に人を傷つけても、痛痒がなかったりする。昨年より、与呂見周辺の植林が刈り出されている。与呂見地区の人達が祖先の木を始末するために個別にやっているものと思っていたが、伐採業者がヒト山幾らで伐採権を買い取り、与呂見じゅうの植林を刈るらしい。たった十数本刈り出すために重機が長年培われてきた風景を一変させる。キャタピラー車が入りさへすればよいコンビニエンスな林道がである。彼らはコスト以上の金になるからと自然破壊などという自覚無く、ビジネスとして今日の流れ作業として重機や大型トラックをオペレートしているに違いない。この怒りを彼らにぶつけてもタコが自分の足を食うようなものだ。
 廃村、限界集落の問題に帰してはならない。心して、許してはならないものを許してはならないと思う。すこしづず、すこしずつ積み上げてきた文化がいとも簡単にくずれる。大型化、精密化し続ける機械システムは千年かかった表土を数秒でなくす。われわれの無自覚化が加速する。AIの言うことをもろ手をあげて信仰する。


こぼれ種(梅干しに不適とされた)だぜ。

2014年3月18日

猿山

  猿山を縦走。日本でも有数の雪割草(ここのは、キンポウゲ科のオオミスミソウ)は三部咲きでした。お父ちゃんがここ、皆月に居を定めておればここが故郷だった。
 コナラやケアキの原生林が大きく間隔をあけて生えている。春にシフトしたような太陽が差し込んでいてとても明るい。縦走の終盤、海が広がる。地球が丸い。
 ふもとに降りる。下界は草も、我先にと陣取り合戦のように込いっているなあと感心しました。帰りに実家に寄りお母ちゃんになぜ嫁としてあそこに行かなかったんだとせめる。それから嫁姑などの話になり、こちらからすれば当然の思いもあちらには全く通じないことがあるのだなあと、お母ちゃんの顔をしみじみ見た。
 どうにもならないのだなあと思っているとお父ちゃんが帰ってきて皆月の話になり、小説にもなっているし、人によってはあそこは犯罪者が隠れやすい地形で、ちょっと不気味なところがあるなあと、何気に言うと、父らしくもなくへらへらと笑いながら、昔、朝鮮人が海から上がってきたから、どこそこのなんとかさんが殺して、わしの家の田んぼに埋めたことがあってな、それからその田んぼはチョウセンタンボって言われるようになってな。「あんたもももしかしたら、殺人に手を貸したんと違うやろね」と尋ねると益々、父はへらへらとなって「違う違う」と茶化すのでありました。一瞬父がのっぺらぼうに見えたのでした。
 

2014年3月16日

民族。

 図書館で借りた『海女の島ー舳倉島』F・マライーニ を読む。舳倉島は輪島の沖合30キロぐらいのところにある天領です。(今もそうなんちゃうか)輪島市に属していて、渡り鳥の希少種も寄るらしくて、バードウオッチング愛好者や観光客も近年は多いと聞くが、ついこの前までは海士町(500年前ぐらいに九州から渡来したらしい)の人のものでした。別に脅すわけでもなく、法的規制に頼るでもなく、言うまでもなくあの島は彼ら彼女らのものだという印象はわたしだけではないと思う。
 海士町はほんの小さなブロックにあります。文字通り中上健次的な路地を彷彿とさせてくれます。身体能力に優れ(ローマ・メルボルンオリンピックにて銀メダリストを輩出)、小学生の時から煙草を吸ったりしていたり、中には秀才もいたが、総じて勉強嫌いで(高校を出た者がいじめられる)男も女も中学を卒業すれば海で飯を食べていく。私は気がついていなかったが、文字通り私のように輪島市民全員が彼ら彼女らを差別してきた。(わたしの印象に過ぎませんが、使用する方言が明らかに違うことや、マイノリティーであることは間違いのない事実です。)
 著者はイタリア人。最初はエスニックな裸の海女という興味からだったらしいが、いっしょに短期間寝食をともにして、もっと大きくておおらかなものを海女に感じ始める。本の口絵にウエットスーツが普及する前の薄い腰布以外は裸のままの肉感的写真が30枚近くあって、エロチックなものを感じてしまいました。しかし、それだけではないものも感じたのは確かなのです。その点は著者もうまく言い切れていないのですが、簡単に言葉にできるような人間の感覚では無いのでしょう。文化人類学的に日本人は元来裸に抵抗が無いというのは事実でしょうが、違うな。それだけじゃない。
 著者がふるさとのシチリアの同じような小さな漁村を思い出すが、欧米人の目に止まるエスニックというのは、海士町のように被差別と自覚しながらも、何世代にもわたって生きてきた強さ、きままに生きているように見えて、外部には知られることのない厳格なしきたりを素直に忠実に生きてきた歴史を持つもののことを言うのだろう。自分からエスニックを演じるナイーブな日本人の美しい日本なんぞ、とうの昔に見限られてるのだ。
 羽咋市出身の妻はその海士町の厳格なしきたりの中の厄払いの儀式に大勢の海士町の33才とともに参加したのでした。ナイーブな差別者たる私からすればおまえすげえなあーと、感心するより手がないのでした。海士町で風呂屋の姉ちゃんとして名前が知れ渡っているのです。ナイーブに中央に土下座する輪島市で海士町がどれだけ多様性への扉を担保してきたかは輪島市民全員で共有すべきものと強く私自身は思う。
 今私の住んでいる三井地区だって明らかに使用する方言が違う。とりわけ与呂見地区は三井町の南端、能都町と境界を接する地点にありなおさら輪島市市街地育ちの私からするとイントネーションや発語速度が違う。
 市街地育ちの私はお父ちゃんが門前町の秘境皆月出身で、お母ちゃんが能登島町出身のひ孫の間に生まれた、お父ちゃん側からは門前町系2世、(輪島市で3本指に入る商人だった)お母ちゃんのひいじいさんからみれば能登島町系4世なわけで、輪島市街はそうした2世、3世、4世のるつぼなわけです。市域全体の3パーセントの面積に全人口の半分近くが住む都市区域、文字通り都市なのです。
 輪島市という僻地は見方を変えれば農村地区を含めれば、その全体がマイノリティーの平和的共存という歴史を持つ、まれにみる多様性に満ちた場所なのだと私自身は強く思う。
                               
         blogger 2013年3月16日(最終更新:2021年11月22日)
 




2014年2月20日

4コマ漫画に1コマ加えると…。


  
人の錯覚していく様子がなまなましく描写されている。この5コマで十分だ。

 『人生料理の本  典座教訓にまなぶ』内山興正 第三刷(昭和47年12月8日)P44~45

2014年1月21日

風邪をひいております。

3日ほど、高熱にうなされておりました。母が熱にさいなまれているのを、これ長年の不義理の詫びと病院に連れていって以来です。母はどうやら新興宗教(母は宗教ではないと言い張る)の仲間がムリをして会合に来たのをうつされたらしい。
 頑丈な私の貧弱な精神にとって、大脳が熱に犯されていることは耐えがたい。軽いパニックのような状態になる。臭覚と味覚が全く失われていることがさらに、不安を増す。かろうじて感じられる事象が、かつての意味を失い、さらにはそれらの展開している未来も、ただただ不安であるというその一点を薄暗く素通りしていく。
 頻繁に測定する体温の上昇で、こりゃ病院にいくしかないと電話する。地元の病院には医者がいなかった。市立病院に電話すると、まず大丈夫ですかみたいな気持ちが伝わってきてほっとする。正常ではない今の方が、人の気持ちのあるなしに素直に反応している。インフルエンザをご心配ですか。でしたら、10時間ほどの潜在期間がありますのでと言われ、即座に今すぐに行かない方がいいとわかる。その旨を伝えると、その通りですが、もしもつらかったらいつでもおいでくださいと説明され、安心して市販薬を飲んで眠ると、断続的ながらも深く眠れた。飯を食うことと、眠ることはなんて大事なんだ。と思う。
 大脳が耐えているのだろうか。私という精神が耐えているのだろうか。もちろん私の大脳である。考えているのは私なのだろうか、私の大脳なのだろうか。熱にうなされているのはもちろん大脳の方であろう。大脳は自分自身に対することばを持っていないからわからない。なんてことを延々と考えていた。おそらくもって生まれたくせのようなものだろう。
 体温も戻り、頑丈な胃袋が飯をほしがっている今、ふりかえってみました。風の菌は細君にうつりました。零細家内企業のパートであるせいか、満足な休みもなく連日働く彼女が倒れている様をみるのはつらい。母の宗教なかまを一瞬うらむ。待てよ。問題はそんなところにはないぞ。仕事のないこの季節、彼女の稼ぎだけがたよりなのである。思えば、細君は私のような出口のない妄想にあけくれるひまもなく、子育てから家計までを心配しぬく日々をもう何年やっているであろうか。

追記。
 A・トインビーの「試練に立つ文明」がおそろしくすらすら読める。ギリシャローマさらにはラテン語による研究、オックスフォードなどなど目もくらむような知の傑作などという先入観を捨て、俺見たいなあほはあほとしてすなおに読めや、と思って読んだせいかしらん。そして衝撃的な一節に目が止まる。(事の真偽はこの際どうでもいい)

「われわれはおのれの文明のみが世界唯一の文明であると夢想する地方文明の、真にわらうにたえる奇想天外の二つの実例にぶつかるからであります。
 まるで夢のような話ですが夢ではなく、日本人は自分の国こそ「神国」であり、従って外敵の侵入には難攻不落であるということをほんとに信じていたのであります。(ところがその日本人自身は、不幸な北欧人種の「むくつけきアイヌ」こそいい迷惑で、この人種を追い払って、そう古い昔の話でもなく、まんまとそのあと釜にすわりこんでいるのです。)日本が「神国」?まさか。だって紀元1500年の日本は、シナではとうの昔、紀元前221年の始皇帝がシナをそこから救い出したところの、教化能力も何もない一個の無政府的な封建社会だったのです。シナがあれほど遠い昔に独力でやってのけたことを、日本はシナから拝借した世俗的文明と、またシナ人の御世話によって伝えられたインドの高等宗教の御馳走を1千年近くもまんまと満喫したのちでも、なおかつ成就することに失敗しているのであります。」

 長年タブー化してきたことが、かくもあっさりと言語化されていることに素直に驚いたのでした。つよがりだけど、わざと、あえて、成就させなかったから続いているんだ。お前自身が心配しているようにお前自身の西洋文明の方があぶないわい。まだもうろうが残っているな。おまえらは不安そのものだから言語も文明も強固だ。しかしこっちはどのようであれ、うたうんだ。不安のかけらもないんじゃ。まだもうろうとしているな。風邪のおかげで、休めるだろう?私の大脳よ!

2014年1月13日

正法眼蔵勉強会2日目。

  どのような日常的な行いも出来事ではあるが、この出来事という言葉は重要な意味を持たされはじめている。哲学のテキストに、あるいは呪術師の発話にと。重要なという意味は特殊なという意味に屈折し、特殊はいずれはユニークつまりは唯一に微分される。
 宗則さんは、昨日、入浴前の雑談にて、「正法眼蔵ほど、おもしろい話はありませんからね」と言われました。正法眼蔵に対するイメージに仏教ということと、お坊さんということがこびりついています。どのようなテキストとも共存できない特殊な世界の特殊な言葉が書かれてあると思う私にとっては、これをお話や小説、もしくは物語にできないというへんな自信があります。いわんやテキストなどと呼べるはずがないと。かたくなさは、この固さは仏教やお坊さん、法としての経典(こんな言葉は使いたくないのだが)を思考することを妨げていると思う。形而上学を入れると尚更、味わいにくくなる。
宗則禅師。
しかし、私は形而上学をまったくわかっていない。余裕を持ってわからないと豪語している。なぜわからないことがわかるんだと、自分の大脳に問いかけてみたくなる。何一つわかっていないということを知ることができるということはすごいんじゃないだろうか。わからないその人はなぜだか、とてもうれしそうに笑ってすらいる。こんな私でも、チベットがいまだ中国軍から侵略されていない時代のお坊さんの笑顔と、中国政府がポタラ宮殿を金ぴかに補修し、どこぞの僧院のお坊さんの迷いに満ちた素顔との差ははっきりとわかる。正法眼蔵にも、わからないということのままに生き、なおも法を求めるからこそ、ここまで法は伝承されてきたのだということが実際の禅師と弟子との逸話(これは物語ではなく、実際にあったこと)を通じて記されてある。
 私が得度した時、習わしとして、釈迦牟尼仏を起点にして、歴代の禅師の系図を筆で書かされました。ただでさへ、出家してお坊さんになるということにド緊張していた私の驚きを察してください。思わず、村田住職に言いました。「つながっていたんですね」「文字のない時代なのに?」私は系図の最後に村田住職を書きました。私の持っている手がきの系図の中の和樹さんは、私が弟子をとらない限り、私の手がきの系図で終わってしまうことを知りました。(システム的にです)
 やがて呪術的なムードは去りました。私は呪術のことなどまったくわかりません。岩波文庫の正法眼蔵第一巻末尾の法系図は幹にある大師しか記載されていないのですが、枝葉を入れると厖大な法伝承者がおられます。それら全部の禅師が記載されたものがあるのだそうです。村田住職の正式な弟子は現在4人いますが、この全員が弟子を持たないと村田住職の名前が書かれた系図は4枚しかないということになります。

 あきらかに、昨日の記事はわたくしの構築した物語にすぎません。確かに法は語られましたが、さて法はテキスト化されていますでしょうか?今日の輪講で、お坊さんということが話題に上りました。「私はお坊さんじゃありませんから」と宗則さんが言われたのは世間でいうところの葬式などの儀式をとりあつかうことを主たる行いとするお坊さんではないという意味なのでしょうが、私はここでも、そうは言っても、歴代の祖師のごとく、ブッディストであり、ほんとうのお坊さんなのでしょうとつぶやくのでありました。私が私になりきった時、私を私と名指す差異はどこにもないのですから、私はもはや、なにものでもありませんとおっしゃっているのにもかかわらず。
 何度でもわからないんだあと顔に手をあて、その舌のねもかわかないうちに、がんばっておれもわからないをわかるんだと傲岸な顔をしているのでありました。しかし、私は私の顔を私の視線でもって見ることができないのでした。そのことを知っているのでした。

 宗則さんの提唱

 多処添些子(たしょてんしやす) 多い所にちょっと足す=大悟

 少処添些子(しょうしょてんしやす)少ない所にちょっと減らす=劫迷


道元禅師は、言葉を二重に使う、同じ言葉を別なところで違う意味で使うのだそうです。「気楽に読み物のようにして読書したいのですが、古文の知識などを補いつつ解説しているうまい参考書はありませんか」と尋ねると、「ありません」「水野先生の脚注で十分です」村田住職は、んなもんあるわけがないみたいな顔をされました。ですよね、「道元禅師の表現なんすもんね」とたかをくくったのでありました。「宗則さんは、それこそ、40年間、何度も何度も自分の頭で読んできたんですから」「わしなんか、3行で終わっちまうところを、道元さんはこんなに厖大な文章を残しておるんやぞ」



それにしても、わがメモのひらがなのなんと多いことか。文字じたいを知らないのでありました。

特記 宗則さん、村田住職ともに、「正法眼蔵は道元禅師の表現なんですよね」に対して「そうです」    とおっしゃいました。


2017年8月19日 訂正
村田和樹の正式の弟子は4人ではありません。ご子息もお弟子さんでした。遼雲さんが、きっと法をつぐのではないでしょうか。あるいはもうついでいるのではないでしょうか。

2014年1月12日

正法眼蔵勉強会1日目。


左 櫛谷宗則。 右 村田和樹。
今年はじめての更新です。今日は櫛谷宗則さんを招いての勉強会でした。集ったのは9人。こじんまりと、降雪の中提唱の声が響きました。正法眼蔵「現成公案」。ここに書かれてあることは仏の目から書かれてあるので、凡夫にはわかりません。と言われる。ニュアンスは上からではありません。あくまでも、ただの事実として説明をされました。何度も何度も読み下してきたセンテンスを追うと、まあこんなものかとわかったような気になっています。しかし、皆と輪講するうちに、わかるということは、仏法の話の場合、まるでわかっていない、もしくは、本旨から遠ざかるということがテーマとなって、我が身にふりかかってきました。「おれだけがわかっていなかったのか!」坐が暗くなっていきました。すでに積雪に囲まれて消音されていたのですが、さらに、どんどん静かになっていきました。むろん、私の見える風景がです。
 まさやさんが私に向ってストレートに言われます。「宗則さんを坊主であるとか、そういう風に見ることは違います。あくまでも、ぼくたちと同じなんです。仏法の話における言葉は、にしかわさんが意味づける言葉とは違うんです。むしろ言葉の出る瞬間、つまりは言葉そのものの前後における時間を見るということにおいて、ぼくたちと同じなんです」(意訳)
 村田住職も言われます。「つくづく、仏法の話をする場が無いんだなあと思う」
あらかじめ、構築された私が身聞きし、意味づけする場に、宗則さんの言葉をすっぽりと当てはめていては、未来永劫、宗則さんの言葉は入ってこないのだ。
 慈行さんが隣の席で言います。「言葉ってのは、ほんとうに、引っかかり安いものなんだ」
2年ごとに訪れる宗則さんの言葉がどんどん磨かれていくと、皆は言います。もう何度目でしょうか。あいかわらずの私に宗則さんは、またまた、同じ質問をされました。「なぜ小説を書くんですか」私はなんにもわかっていないんですと言いたいのに、そのことにしっくりする言葉が私の中にまるでない。龍昌寺の庫裏は、言葉が力を持つ。その力の前に、さらっとした読書などで得た私のボキャブラリーのおもちゃ箱の中を幼稚園児のようにしてがちゃがちゃと手をつっこんでも、何もない。とりわけ、私を楽しませるものが皆無である。
 あれこれと思い悩む思いよりも、生命=いのち、今現在、この場所でも事実としてあるこのこれの方が、はるかに古い。いやはるかでなくてもいい。思いが生命のことをとやかく言うことの無力さはふつうに考えてもわかるはずなのに、驚くことはおろか、聞く耳すらないのである。積み重なってあるわけではなく、その都度、その都度なまなましい。
 すかさず、まさやさんは言う。「ぼくがぼくのなまなましさに追いつけないんですよ」ムリなんですよ。だからこそなまなましいんですよ。
 宗則さんの提唱。

「諸法の仏法なる時節」この一語で驚いていいんです。続くありありあり、断絶です。そしてなしなしなし、続いているんです。」庫裏に不怠(ふたい)という言葉が輝いておりました。これは怠けるなというよりも、怠けていられないということです。宗則さんが話すと、道元禅師もお釈迦様も身近です。おじいちゃんの何代か前という感じです。まるで言葉が宗則さんの身体を借りて降りてくるみたいでした。

追記。ここで書かれた言葉の時系列は私が編集したもので、各人の話した内容もかなり意訳いたしております。ですから、各人の意図とはまるで違う可能性が高いことをお断りしておきます。

道元禅師の歌が紹介されました。私としては以外でしたが、かなり多作であったとのこと。村田住職によれば、吉本隆明は3流と評価されているとのことです。

 風もつながぬ
 
 すておふね

 月こそやは(夜半)の

 さかりなりけり