2013年3月24日

市議会議員さまへ。

 3月22日、学校設置条例の改正の議案が可決された。教育民生委員会のkoyamaが、本会議場で全会一致であることを発言していた。うーmm。あほらしい。おのれら、三権分立とか、わかっているのんか。自分の立場を職業と勘違いしとるんとちゃうんか。おのれらはこの中のどこに属しているのんか意識したことがあるのんか。
 市役所の少しだけ、自治のノウハウがある作文家の書いた原稿を棒読みしていてむなしくないんかい。おのれらは立法する立場やぞ。わしらは普通の市民なんやぞ。で、市役所の職員はおまえらに奉仕するためにおるのではなくて、わしら側のためにあるんやぞ。で、おのれらはその仕事ぶりをチェックすることが義務なんやぞ。
 で、なんや、三月定例会のスケジュールは。22日間のうち、たった4日だけしか議場に来なくていいんか。それで歳費はいくらもらってるんや。年金はいったい生涯でいくらになるんや。何をネクタイしめて、どっかのニュース映像みたいなしゃべり方しとる。くそだらっ。

会期:18日間
月日 本会議 映像
3/5(火) 議案・上程説明
(10:00~12:00)

02:00:00
3/6(水) 休会
3/7(木) 休会
3/8(金) 休会
3/9(土) 休会
3/10(日) 休会
3/11(月) 休会
3/12(火) 休会
3/13(水) 質疑・質問
(10:00~17:00)

03:48:00
3/14(木) 質疑・質問
(10:00~17:00)

02:56:40
3/15(金) 休会
3/16(土) 休会
3/17(日) 休会
3/18(月) 休会
3/19(火) 休会
3/20(水) 休会
3/21(木) 休会
3/22(金) 質疑・討論・採決
(14:00~17:00)

00:50:30


 輪島からいったい何人の人間が日雇いやら、アルバイトやらで市外に毎日通って薄給をもらって、自分の息子、娘のためにがんばっとると思っとるんか。輪島市の一人頭の借金が県内で断トツっちゅう記事どう思っとるげ。いったいおまえらは何をやっとるげ。豊かですとほめられると、自然が残っていますと自慢して、けなされると人が少なくなっていきますからと言い訳をして。いったいおまえらはwajima市をどう思っとるげ。

追記。

広い敷地に、広い廊下、エレベーターに冷暖房完備。巨大なランチルーム。三つのカウンセリング室。新品の山。でも、新しい学校をつくるのは、まぎれもなく生徒だな。

お金は惜しんではいない。
新しい校舎だっ。



2013年3月19日

卒業されましたね。

 卒業式おわる。
例年泣く子が多いらしいのだが、今年はみな泣かなかった。儀式として泣かせる演出がされやすい卒業式ですが、みな毅然とした姿でした。グルーブを感じさせてくれるほど、うまいピアノ演奏による合唱をすぐ目の前で観ることができたのは幸いでした。あなた、12才の子供たちが、いっしょうけんめいに卒業生をやっているんですぞ。声を合わせているんですぞ。

おめでとう。おめでたいは同じ言葉なんでしょうか?
祝辞全文。

2013年3月18日

スピーチ。

 明日、小学校の卒業証書授与式が、三井小学校で行われる。この一週間、PTA会長としての祝辞の原稿を考えてきたのですが、どうも、私は自分自身のペースで盛り上がらないと、どのような対象に対しての言葉も浮かばないらしい。うーmm。まどろっこしい言い方だ。超アガリ症で、ほとんど病気である自分は、自分というものが中心にならないと何も話す気がしないのである。小学生に対してなのだから、わかりやすい言葉で、小難しい修辞を避けて文章を考えてきて、思うのは、原因であるアガリ症があって、自分というものが中心とならざるを得ないのではなくて、ま逆で、自分というものを中心に考えるからアガッテしまうのではないかとということである。とても、とても、弱い自分だから他者を恐れるのではなくて、自分というものを強固に守ろうとするこの状態は必然的に私を侵害する他者の存在が不可避なのであって、その結果として強いものと弱いものという二分法的な筋立てを自動的に妄想してしまうのである。と思うのだが。
 今日は、最終原稿を小学校5年生の末娘に見てもらいました。まあ的確というか、どんどん、私がもっとも気にいっていた節を省いていきました。これいらない。これもいらない。最後に末娘にむかって読んでみると、それらの節が不要であったこと、文と文が見事につながっていることを体感したのでした。それでも、まだまだ、いらないのが多い。というか、全ていらないような気もします。でもあんまり短いのもなあとも思います。自分のもっともええなあと思ったことが、もっとも文章の流れを阻害しているとは!。きっと、子どもたちはおれの気がつかないところに反応するんだろう。なにこのおっさん、あせってるんだよと。(涙)

2013年3月17日

日曜日。

中学校統合の署名を集めにyoromiをまわる。murata住職のところにはezakiさんの長男、mugiがいて、ガールフレンドのnanaseちゃんもいた。それにdanもいた。署名の要旨が、せめて新校舎での統合を、ということにkeikoさんも引っかかった。中学校統合は決まっているの?いや、市の条例改正がまだですから、まだ決まっていないと答えたのだが、どうもしっくりこない。ムードとしては決まっているんですよ。と言っても尚更、わからない。だって消費税の値上げも法律で決まっているけれども、もしかして、反対の声がうねってひっくりかえることもありますし。でも消費税は決まったって言えるんでしょうか?私たち一人ひとりの力は無に等しいけれども、決めるのは私たち一人ひとりなんではないですか。これは動かしがたい基本では。だから第三者的に決まったの?と言うのはなんとも、無責任な気がする。生温い反対運動ではある。

ezakiさんちのある山にいる猫。
やっと、卒業式の祝辞の原稿が書きあがる。小学校6年生にはむずかしい流れかと思うが、さて。思いは込めたということで許してもらおう。難しそうな言葉を簡単に言い換えたり、不要なことを省き、大人が考えるべきことを子どもたちに託してしまったりしているフレーズを消したりしていくうちに、自分が何をやりたかったのかということが文章化されていったように感じました。

2013年3月12日

ハッカー集団。



よろみ村のホームページが、ハッカー集団にいたずれされてしまった。yoromi.netのリンクタブをクリックすると、いつもならホームに行けるのに、へんてこな表示のページにしか行かなくなったのです。設定をしてもらっているmuraiさんに教えてもらいました。怒りよりも、人ごとだと思っていたハッキングにやられたことにびっくりした。へえー、わしみたいなところにもやってくるんだ。アクセス数がふんとに少ないからか、悪意があるにせよ、わしのページにやってきたのだから、ちょっとうれしかったりした。ホームページの中には、過去のよろみ村通信のデータが3種類の形式で入っていただけだったのと、他人のアドレスなどの個人情報が全く入っていなかったからでもあるのですが。思い返すとゲストブックに外人名のアクセスがあったなあ。
 しかし、これからは注意しないといけないですね。ネットショップだと尚更、注意しないとと思っております。すでに、ホームページを作る無料ソフトの最新バージョンの別ページは準備していたのですが、もう一回そこで作り直しです。


見上げれば 青い空。

よろみ村通信原稿のゲラ(っていうのかな)を出稿しました。ITによって、作業が簡略化していきます。しかし、春と秋のお彼岸の節目を飾る小さなお祭りには変わりないです。少なくとも、私にとっては。

masayaさんのメールが送れないので、murataj住職の部屋のPCの画面から直接入力(何たるアナログ)することに。しかし、私がやるといとも簡単にメール送信できたのでした。(自慢 鼻息)住職の部屋は本棚のある物置みたいでした。


2013年3月5日

啓蟄。


ストーブを焚きすぎて、昼は室内で汗をかいてしまった。南側の斜面から、山肌が見えてきた。啓蟄。雪に埋もれていると同情していた小さな虫たちが蠢きだした。で、末娘が学校から帰宅後、ふとんに潜り込もうとしたところ、蜂に刺されてしまった。動転している。強い痛みの前に、刺されたことの衝撃にびっくりしている。そうなんだよな。
 去年縁の下にスズメ蜂が巣を作ってしまったので、まさか、ついに室内に侵入したかと恐れながら二階の末娘の布団を、窓をあけてはたくと、黄色い横しまの蜂が落ちてくる。げげっ。自慢ではないが、我が家のまわりには毎年マムシを目撃する。去年はトイレで、生まれたばかりのマムシが一丁前に鎌首をもたげて、威嚇していたこともあった。へっぴりごしの遠隔操作でそいつを殺し、薪ストーブの中に投げた。泣きだした末娘のケアーの仕方もわからない。まことに、なんにもわからないのである。かろうじて濡れタオルで冷やし、様子を見る。
 それから、潰した蜂をテーブルにおいて、ネットで調べる。ワイルドだろおー。というフレーズが頭に浮かぶ。結局、これだったのでした。

キアシナガバチ



和名:キアシナガバチ
学名:Polistes rothneyi iwatai
分類:節足動物門>昆虫綱>有翅昆虫亜綱>ハチ目(膜翅目)>スズメバチ科






セグロアシナガバチとよく似ているが、体色が黄色っぽい。



2013年3月4日

漏電。loading


雪解けの 速さを競う カメラかな。

 北海道や青森ほどではないけれども、積雪は思わぬ被害をもたらします。たとえば昨日などはお米の精米をしていていきなり精米器が止まった。夜おそかった(言い訳)から、今日先日、murata住職に言われていたどおりに、まれに出ていた太陽で精米器のポンプを干す。ふと、漏電ブレーカーは作動していないだろうかと配電盤を見ると降りていた。スイッチを戻すとポンプが作動する音が聞こえたのだが、すぐに収まった。いつもより大きな音だったから気になった。
 まっ帰ろうかと倉庫あたりでうろちょろしていたら、itayaさんとyasumuraさんがおいでた。yasumuraさんはギリシャ古典文学のプロフェッサーでひさしぶりにkanazawaの大学にて集中講義があったついでにyoromiにおいでたのです。英国の格式高い大学にて学んだりしていた言わずもがなのインテリで、背筋がしゃんと立っている凛々しきお姿に思わず「あいかわらず、お麗しい」と言ってしまいました。なんだか知的な会話をやらかしたくなって、ちょうど昨日、小委員会に行く前にざざっと呼んだヴォルテールの「カンディード」の話題を持ちかけると、まことに鮮やかにわたくしは知りませんが、ときっぱりと言われた。本物のプロフェッサーが放つ「知りません」と言う言葉は、かえって私には研究対象に対する深さが想像されて気持がよかった。カンディードはなんだか好きで自分の本棚から、なかなか離れない本の中の一冊なのです。その理由は小説最終行、主人公カンディードの言葉が大好きだからなのです。
「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません」
フランス革命後、絶対王政の崩壊による混乱の中を生き抜いたヴォルテール自身の一生のごときものがパロディーとして、一冊を駆け抜けているのです。東洋人にはわからないようなキリスト教やユダヤ人に対する風刺が文学として結晶していると思うのです。ただギリシャローマを知らずにキリスト教も踏み絵で撃退できると思うような心性から見ているせいなのか、逆にカタログの用語説明のような感じで西洋文明、とりわけフランスから見た世界が総覧できたような気にさせてくれるのです。岩波文庫にて、たったの172ページの中にです。(日本も踏み絵の国として登場している!)
文学って、人には見えないもの、を言葉にて見えるようにするという重大な役割を人類上になっているのですよね。と聞くとホメロスに純情を奪われたかのような少女に帰られたような輝く瞳を見せてくださいました。先生のような口調はこのような時には、なんとも心地よい響きを与えてくれます。kawasakiのお宅で、小さな畑も開墾されているとのことで、yoromi特製ボカシ肥料を大きな麻袋ごと持って帰られました。ジャガイモおいしいのよお。
 さて、清々しい青空なのですが、何か引っかかるものがある。so 水だ。ポンプだ。自家水道だ。
とにかく下の貯水タンク&ポンプを見に行くと水は十分にある。よしよし。水が無いからポンプは自動停止したんだな。せっかくだからと上の方に向う。フタを開けてよく見ると水位が低かった。あちゃちゃ。あせってnishiyachiさんに来てもらうと、電気が来ていないという。土中に埋まった電線がモグラかネズミにかじられたのかも。もうお昼だし、電気屋さんも呼ばねばということで午後を待つ。仮設の電線でつなぐしかないということになる。午後、いつの間にか電気屋さんとnishiyachiさんのご長男がもう来ていた。感じがよくて、頼りがいがありそうな電気屋さんが、説明してくれる。配電盤の右はじにあるボックスを開けて、ほらほら、ここに黄色いスイッチ、これ安全スイッチなんですけど、これをこうして押せば電気がいくんですよ。思いだした。このスイッチはmurata住職もやっていたことがあった。なんだよ。すんません。しょうもないことでプロフェッショナルを呼んでしまってとあやまる。
 murata住職のいない間に、水道のトラブルがなきゃいいがと思っていたのだが、とにかくよかった。murata住職がいなくなったら困るなあと思う時、真っ先に思うのはこの自家水道である。仏法よりも何よりも、自家水道の全てを教えてもらっておかないとと思うばかりなのです。
 nishiyachiさんのご長男の方が、帰り際、あのこのまえいっしょにおったポンプに詳しい人、あの人ほんとに詳しいみたいで、あの人やったら、今日のこともわかると思いますと言って帰られました。「あっ、あの人うちの住職です」と答えたのであった。しかし、専門家がやってきただけで、安心できるのはなぜだろう。ご長男はまだその点甘いかもしれない。「おれも気が付けばよかったんだけど」と後悔をされていた。お父さんのnishiyachiさんも気付かなかったが、師は上水道設備&ポンプの専門が深いんだな。忙しい電気屋さんを「話が見えない」にもかかわらず、派遣してくれました。そして電気屋さんも電気設備プロフェッショナル。漏電の原因を尋ねる私に「完全に漏れたら、すぐにわかるんですけどね。中途半端だとちょっと……」。やっぱ中途半端はその道を極めた人でも見えないんだな。

この時はまだ、原因が見えていなかった。




2013年3月3日

小委員会。


スザーンさんとクライブさんの向こうに教育委員会の方々がいらっしゃいます。


教育委員会がPTAを招集して、各部門別に検討を重ねる小委員会の経過報告会が開かれる。制服、通学、交流学習、校歌校章を決めようとするものだ。委員会は各学校に動員をかけた。
そこそこ、人が集まっていた。会議後、市街地の学校の父兄と会食をしたのだが、どうも、いろいろ不安を声にしていた人たちも、統合が現実として近付いたせいか、皆沈黙をしだしたようである。私もそのようである。haginoさんが統合はまだ、決まったわけではないし、関係者の不安が解消されたわけではないと、訴えても、erikoさんが日頃たまっている教育委員会へのもやもやをそのまま訴えても、義理でとは言わないが、会場の中ではぽっかりと援護もなく一方方向に流れているだけのような気もした。私などは、日頃、ささいなことには切れるくせに、教育委員会にごくろうさまと言ってしまう始末だ。定刻終了後、延長線を別室で行ったのだが、やはり、haginoさんとerikoさんと私の三人だけが、反対派のレッテルを貼られるだけでした。どこの学校の方かは正確にはわからなかったのですが、あなたがたは、反対でも賛成でもない。いったい何を言いたいのかがわからないと言われました。私は何が問題なのかをはっきりするための、このような議論の場と時間がほしいのですと言った。このような時間を短縮するほど、現在の状況は切迫しているとは思えないと言った。また別の方からは、そんなに三井中学校がいいんですか。みたいなことを言われた。育った環境の違いをうまく調整するのにもっと時間をかけろと言った。もう決まったんだから、へんなことを言うなという空気が蔓延している。そのようなムードは多くの無言によって力を得ている。私はただのあまのじゃくなのだろう。統合することよりも、そのようなムードがイヤなんだということだけは、今日わかりました。あなたが通うわけではないでしょうと言われたことがあったが、学校に通うのは私ではないが、児童生徒たちはすでに日常生活の中でこのようなムードの中を生き続けているのだと返せばよかったと思う。どのような制服を着て、どのような道を通って、どのような校歌を歌うのかなど、二の次だと思う。三井地区の生徒の通学に特段の配慮を具体的に検討しているというアメなんかでは、騙されんぞと思う。切磋琢磨とか学力向上を素直にできないもっとも弱い児童を基準に考えてくれ。がんばれる、あるいはがんばれそうな子供の平均値で学校運営をやらないでくれ。いよいよ、三月議会が始まる。条例改正がこのままではなされてしまう今日現在です。
 会食はマリナーズというレストランでした。松稜中学校のある山のふもとにあります。オーナーで同級生のTさんと少し話す。同窓会の時に集まった30人ほどが写っている集合写真を見せてもらいました。みんなじじいとばばあだった。もうすぐ、松稜中学校なくなるげんぞ。そんなことどうでもよかったのだが、初めて、寂しさを感じました。
もう25周年だそうだ。すげえ。

2013年3月1日

教育委員会さまへ。

 教育委員会より、教育長と部課長の三名を迎えて、統合問題について話し合いました。こちらからは、私を含めて四名の保護者が出席しました。明確に会を結成しているわけではないのでこちら側と言っても力が弱かった。賛成でも反対でもなく、アンケートの結果など統合に関して具合の悪さをすくいあげて教育委員会に届ける役割を担っていると思っている。賛成、反対の二者択一で言うならば、半分以上の父兄が統合がいやなはずなんだが、正直言って、全市的に盛りあがってはいない。
 ここに来て、賛成の父兄から強くたしなめられているので、そのことも足かせになっている。ほんとうは三井中学校を残してほしいと思っているのだけれども、どうも三井地区出身の方々から息苦しい地区の閉鎖性を無くしたいという思いを直接、廃校に結び付ける考えをぶつけられる事が多いのです。短絡だと思う。外圧で動く日本人そのものの縮図のようにも思う。
 私一人が動いたってどうにもならんと思っている、私自身もその縮図を形成している。自分の子供ですらうまく育てられていないのにということも、ごっちゃになっている。でもこうして、悩むという時間もあるべきだと思う。それぞれの子育ての中での、大小の悩みが俎上にのるような機会が必要だと思う。統合問題は、全市的な問題であると思う。PTAはこのような時に真価を発揮する集団なのだと思う。
 歴史的な出来事でもあり、後々長く語られる伝説を今作ろうとされているのだから、もっと時間をかけてほしいとお願いして会は終わったのでした。それにしても、お母さんというのは、ストレートで力強いものだと思わされる機会が多いです。