2013年12月15日

原発も遺伝子組み換えもTPPも、賛成か反対かで話しはじめるのは止めようじゃないか。

 どの国の良識も決して中立ではない。中立をつきつめるとよくわからなくなる。事実と真実の哲学的探究という側面もある。そのままをそのままと簡単に言わせない傾向を感じる。福島原発から大量の放射性物質が環境に出てきて以来のテレビや新聞など、報道機関のあやしい動きを見れば私のような社会不適応者の鬱を吹き飛ばしてくれるような人類滅亡物語が感じられる。戦争が始まると精神障害者が激減するという。
 地球がどんどん小さくなっていく。宇宙の果ても見えたかのように、整理整頓された形で、自分の人生もそのような傾向におさまっていく。自分とはいったい何なんだろう、とでも考えるか。問いではなく、ある物語にとっての必然的帰結。終わらないというエンディングを迎え続けるわけだ。やはり自分自身を見すぎると何にも見えなくなってしまう。
 人が人になってから、問題が生じたのではなく、問題そのものが人であるとすれば、全てがつながる。私という事実をそのまま知ることができない者としてこの私は生まれたに違いない。ただこれらは私の脳内でおこなわれていたのだろう。私が私になった瞬間を思うと意識が遠のく。
 順番が違うじゃないか。瞬間瞬間の私の連続をつないでいるのは物語である。
 みたいなことを思いはじめて、まだ4,5年しか経っていないのだけれども。
 今までに一度たりとも途切れていないということもセットで考えるべきだったと思う。何が何と連続しているのかは、全くわかりません。(政治や経済の始まりは、体制を担っている人たちが失敗の無意識的隠蔽という形で間接的に、自らの手で見せ始めているじゃないか?そんなもん、政治でも経済でもなんでもないけど)
 
 こんな風に考えると、なんだかほっとする。
味噌うまいんだよなあ。手前味噌だけど。麹づくり今年もはじまります。

2013年12月10日

第6回輪島中学校統合準備委員会。

 6月以来開かれていなかった輪島中学校の統合準備委員会があった。この間、三井中学校に教育委員会がいきなり訪れてスクールバスの要望は受け入れず、既存の民間路線バスを利用すると通告してくる。(この言い方は、きついかもしれんが、あえて教育委員会の仕事ぶりを讃えたつもり)
統合反対の要望と同様に、なんだよ最初から決まっていたのかよという感じである。
 ちいさな会議室に30人ほどがいて、そのうち、保護者は10人もいただろうか。あとは学校の先生に市役所の人のみであった。半年ぶりの開催にもかかわらず、用意されたレジュメは議事進行以外はまったくの白紙。議事にて制服や校歌、通学などが報告されるも、真新しいことはなく、校歌は依頼した作詞者の作品があまりにも幼稚で50年にたえる綿密な準備過程にそぐわず、作曲者の天沼氏に作詞も依頼している段階なのだそうだ。
 小さな会議室には統合決定後すみやかに決定した男女の制服と体操服(コムサデモード)が並ぶ。最後のあいさつにて、某中学校校長先生が、散発的に実施された各小中学校の交流にて、大人と違って子供たちはオープンで適応力があるから安心しましょうみたいな、まさに大人の無関心ぶりを象徴するような意見を述べて会は参会する。所用時間1時間、予定どおり。
 唯一、三井小学校の父兄であり、統合問題をまさに問題としてひきあげてくれた萩野さんが、質問時間にて、この統合委員会はいったい統合問題にどのように関与しているのか、その意味がわからないと、やんわりとやさしく、かつ理論的に言われた。彼がいなかったら、形式だけの会議が何回かやられただけで、新中学校は稼働していたことだろう。
 自分のこととして、自分を勘定からはずして考えるような市民が不在の状態で民主主義的手法だけを進めてしまうと、議論する場所もなく、新しい施策が発表された段階ですべてが決められているということになる。そして施策に対して何も言わないということそのものが、即推進への力となっていく。「決まったもんを、ごちゃごちゃ言うてもね」「なかよおせんかまああ」。とまるで鎌倉時代のまんまのような状態であることが露呈される。
 これらの批判は、私自身に向けられている。誰かが言うとったけど、日本は近代の体をなしていないというのはほんとうだ。

2013年12月8日

ちょっと沈んでおりました。

 参議院での特定秘密保護法案の採決より、鬱に沈んでおります。原因はさまざまに思いつきます。政権が国民の懸念を知りながら法案の成立そのもののために強行採決したこと、長男や次男が徴兵されるような事態に動き出したこと。この両極端の間で法案の具体的中身への思いが介在しております。同時に私個人は、この法案が守ろうとする秘密や秘密を漏洩しようとする者に抵触するほどの意志を持つほどの生活を送っているだろうかということも、もう秘密にはできません。「おまえ、関係ないだろ」と言われているような気がしてならないのです。
 現在の日本国における議員内閣制による行政統治は、システムとして私を含む20才以上の全国民が選んだものということになっている。近いようで、遠い、遠いようで、近い、距離感が実測でも想像でもよくわからない。単なる勉強不足なのかと、今頃になって特定秘密保護法案の修正法案を読んでみても、以外にわかりやすい文章だと思うが、日本国が何をさすのかがそもそもわからない。安倍内閣総理大臣の脳は日本国をどのように認識しているのであろうか。
 あの人の国会答弁をYouTubeにてちらちらみていると、さんざん美しい日本とか、世界の平和とかを連発するのに、具体的に日本国憲法の条文を理解されているかみたいな、個人的意見を問われると必ず、私は総理大臣としてここに座っているのですから、いちいち憲法を論じる立場にはありませんと言う場合が多いのは、ずるいを越えてとんでもない勘違い、あるいはとんでもない無思考を正直に言っちゃっているようで、傘下の大臣たちもそのような人間が多いのではないかと心配になってしまうのです。ようするに責任をまったく意識していない。
 民主主義はいかなる自動的なシステムをも排除するための超主観的な人間の意志がないと成立しないのではないか。私はこう思うがないと、簡単に暴走する多数決による意志決定システムになってしまうのではないか。そのためにたくさんの失敗を重ねつつ、血を流しながら修正してきたシステムなのではないのか。
 そこから抽象された言葉として国、平和などの美しい言葉がある。ちょっと元気に私がなったのは、言葉そのものが放つ美しさであって、鬱をもたらしたものは、システムとしての国を美しく輝かせる責任を誰か突出した頭脳がやってくれるからと責任逃れをしてきたことにやっと気づいた事そのものである。
 政治や経済、世界の歴史を自分のこととして、しっかりと勉強しようという気持ちをかりたててくれた今回の特定秘密保護法案審議の課程に感謝したい。

2013年12月6日

特定秘密保護法案成立。

  昨日、今日と日雇いに行ってきました。よろみ村で呆けて暮していたので、久しぶりに行った金沢は新しく舗装された片側3車線が多く、巨大なモノ売りの店も増え続けているようで、落葉が吹きすさぶ奥能登から来た者にとっては、そこにおるだけで緊張しました。アベノミクス効果は地方にようやくやってきたようです。日雇い先の所長さんも、急激に物が動き出してたいへんなんだそうです。仕事から営業所に帰ると、一時金と書かれたボーナスの明細書が入った封筒を目の前にして社員の方方はうれしそうです。
 ネットでは、特定秘密保護法案の国会採決をめぐって、官僚と経団連のシナリオでただ言われた通りのことを演じる政権与党という陰謀論がクローズアップされています。私自身も、2流私大を出たトリプルA(麻生、甘利、安倍)がわずか1年のうちに、これだけたくさんの仕事をこなせるわけがないと思っていましたから、どのような政策も陰謀論から帰納すれば得心がいくことばかりです。しかし東大法学部はいったいどうしたんだ?何をしているんだ?
 気のせいか、昨日(12月5日)委員会採決された瞬間にネットに沈黙が生まれてきているような気がします。勢いが無いのです。法案に反対する学者さんが言っておりました。この法律は不備でおそまつなほど、効果絶大なのである。人々はますます疑心暗鬼になる。これほど、費用をかけずに国民に政権の力をおよぼせる法律はないのである。そして、とりあえず、景気も何気によさそうだし、まあ安倍も悪いやつじゃないんだから、まあいいんじゃないのおが、合わさって、(テレビでは深夜に保護法案審議を直接担当している委員長(民主党)が何の落ち度もないのに罷免されたのに、あいかわらず、お笑い芸人がトークのために身を粉にしている)システムさへ、ちゃんと稼働しているんなら少々のことはいいじゃんか、みたいな流れに、国民は流れ始めたのではないだろうか。
 一昔まえ、つい10年ほどまえ、小泉いぜんの、政治家たちの愚図がなつかしい。今となっては、アメリカの後ろ盾なしにはものも言えないことを自覚しながらもとぼけ続けていた老獪さがなつかしい。明治維新を経ているにもかかわらず、鎖国的精神を続けようとしていた日本人が懐かしい。
私のように、そのような立派なおじいしゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、おにいさん、おねえさんの元で安心して愚図りまくってきた人間にとって、こんなにも、急激な欧米化は困るんです。
 それにしても、なんであべはあんなにうれしそうなんだろう?

おわび。
 おじいしゃんとなっておりますが、響きがいいのでそのままとしました。

修正。

 19時31分現在、参議院本会議ではまだ採決がおこなわれていませんでした。

2013年12月2日

何をかっこつけてんだよ。おっさん。

 池田信夫とかいう人のブログ記事をフェイスブック上で見る。特定秘密保護法案に賛成の記事である。今回の法案は秘密を守らなければならない人に対する法律であり、巷で大騒ぎされているような普通の市民を弾圧するような法律ではないんだということを、朝日新聞批判をベースに論述されてある。国家をどのようなものとして見るかによって、善悪という主観的な問題に還元するかのような議論をしたくないし、法案の細部の運用を予測できるほどの感覚も薄いくせに、特定秘密保護法案の是非を言うなと言われるかもしれないけれども。
 国家の提出した法案を賛成するということと、反対するということは対等に測られる市民の行為なのだろうか。法治国家における立法府が賛成している法案をそのまま賛成する側が目的達成(法案の成立)のために費やす努力と反対する側の目的達成(廃案)までの労力は同じ基準で測られるだろうか。法案提出の時点でそれを賛成するということは、すでに有利なんではないだろうかということを言いたかったのですが。同様にちょっとそれおかしいんじゃないかなあああと思っただけで反対なんだと言われる者が反対と意思表示する時において、すでにハンディを背負っているのではないかということが言いたかったのです。

追記20131209 
 若者はすでに知っている。12月6日参議院本会議で法案が採決された後、催された会合で女子大生が発言しています。
「賛成か反対の意見を強いるのではない。でも、傍観して自分の意見を言わないことは中立とは言えず、権力に力を与え続ける暴力行為だ」と呼びかけた。
               
 
 ずるいかもしれないけれども、私は構造のことを言いたいのです。大勢の人が反対もしくは懸念を持っている法案に対して、賛成することのカタルシスなんてないんですかね?私もイニシアティブを持った国家の行動に対して異議を唱えるというカタルシスがないこともないですが、この法案に対しては、恣意的な運用を戒める歯止めがシステムとして条文に入れられていないことからみて、廃案にすべきだと思います。賛成する人はようするに、なんらかの恣意的集団で安住されている方なのだろうと思います。いいじゃん、ボロボロとマスコミにしゃべっちゃう大臣なんて。とろい国でいいじゃんか。そんなことで他国から攻撃されたらどうするんだと言うが、戦争は相手の状況を斟酌して行われるものではない。攻撃される時は攻撃されるのである。(違うかな?)Cool Japanの中には、そのようトロさも入っていると思うんだが。

2013年12月1日

責任者出てこい。(人生幸朗・生恵幸子)

 テレビで、バングラディッシュの縫製工場の話をしていた。国のメイン基幹産業である。設計より建て増して5階建てから8階建てに作られたビルが、朝一番に2000台のミシンが一斉に始動した途端に倒壊して従業員が1000人以上死んだのだそうである。(黙祷)。
 バングラディッシュ国内の財界団体(カルテルだと思う)の副会長(実働するポジション)を労働者(従業員でもある)から見れば、悪人に見えるし、副会長からすれば商品を発注する欧米の資本家たちが悪人である。労働者は生活ができないから給料を上げろと言うし、資本家からすれば、欧米の資本家たちの工賃が下がっているのに給料を上げろという労働者は会社を破壊しようとする怪物に見える。立場を変えて見れば、どこにも加害者がいないのであった。
 従業員を労働者に、経営者を資本家に単純に言いかえたせいでもある。カテゴライズされた物語を、いろいろと組み合わせれば、今では私のようにちょっと経済学をかじっただけの者でも容易に世界を分析することができる。
 日本の温厚そうな経営者が登場して、物語ではなく、一つの企業行動が紹介されると、再び資本家は経営者に戻り、労働者は従業員に戻された。この一企業人の温厚そうに見える人柄による。もちろん私の主観によって世界を自分に近づける。ここで問題にしたのは、万国共通のカテゴライズされた用語によって再構成する世界と私の主観によって意思を吹き込まれた人間同士の関係性によって再構成される世界との微妙なズレである。もちろん、主観もすでにカテゴライズされていることは間違いない。あーややこしい。
 家計であれ、企業であれ、自分が出す金銭よりも自分のところに入ってくるそれの方が多くないと明日はない。だから必死である。これはわかる。さて、公会計はだいぶん話が違う。赤字になってもつぶれない。アメリカでつぶれた都市はたくさんあるが、財政危機の国もあるがつぶれない。つぶれようがない団体が確かにあるのは、ものすごく主観的な理由がありそうだ。
 バングラディッシュの国情に戻る。自分が支払う金銭をもっとも少なくできたかに見える欧米の資本家が悪の元締めのように感じられる。番組では顔も声も出さないから尚更イメージが暗く、怖い。ほんとうにそうか。今はやりの陰謀論で言えば、ユダヤの商人に結び付くのだろうが、限られた人間が掌握しているのは金銭であって金銭的価値そのものではない。そして金銭はどのようなものにも価値を見出すことができるから、端折って言えば、金銭は金銭的価値の奴隷なのである。
 金銭と金銭的価値が限りなく相同であると勘違いしている日本は、財政学的に言えば破産団体である。国の借金を国内でまかなっているから大丈夫だと思っている国民の主観によって成立してきたし、これからも成立していくだろう。自国の利益を企業の利益と同じであると思っているのは、はたして議院内閣制により誕生した内閣総理大臣だけであろうか。家計と企業会計と公会計をまったく同じものとみなしている国民性に問題がないのであろうか。
 精神的な側面も持っていた資本主義がシステムとして稼働するということは、ある種の破たんを意味するのではないだろうか。資本主義を現実的に容認すればするほど、資本主義の抽象性が増している。金銭的価値と金銭を同一視し、入った金銭から出した金銭を差し引いた利益が善であるかのような短絡を許しているのはわれわれ一人一人ではないだろうか。私は価値を生み出す責任者のうちの一人だったのである。バングラディッシュのみならず、世界のどこを探しても悪の元締めは出てこないのである。探そうとすればなおのこと、絶対に敵は見えなくなるのである。資本家を倒す労働者という図式よりも、貴族(働かなくてもいい)と民(働かなければならない)という図式の方が今でもバリバリの現役なのです。だれしもが働かなくてもいい方を志向していては、さらにさらに世界の抽象性は増すばかりなのである。文句を言える対象が消え果てて、あたかも責任を背負っているかのような生贄を探すばかりになってしまうのである。
 金銭的労働と金銭的労働でないものをひとくくりにしていますが…。

追記

 暗い青春時代、人生幸朗・生恵幸子がテレビに出てきただけで、死ぬほど笑っておりました。「責任者出てこい」とくだらないことにだけ難癖をつけるのです。