2013年2月28日

作文。(与呂見村通信編集人として)

誰かが言ってました。藩とか国なんてないんだと。あるのは人の集団だけなんで。昔は目に見える範囲しか見なかったから、今の方が、はるかに中央集権的国家なんぞ、抽象的な妄想にすぎないということが自明なんじゃないか。
 集団にもその時期その時期のムードがあって、それが目に見えない形で中心となる人物を後押ししていただろうと思うのだ。よろみ村通信を読んでいて、年代が下がるにつれて、作文が形骸化しているのがわかる。書きたい人と書きたくない人がわかる。書くのがすきだから書きたいのではないということもわかる。得にitayaさん無き後は、坂を転がるようにして、おもしろくなくなってしまった。蛇足ながら、書いた人が皆、まっすぐに作文に向わざるを得ないのが作文の特質の一つでありますから、よろみの皆もそのことをはずす人はいません。しかし、私の作文は見るに耐えられない。謝ってもすまん。なんだか、マジメに作文しようと、思っております。
 でも、でも、このような作文が集まる場というのは、ありそうで無い。なんとか続いてほしい。

2013年2月27日

雪漠。

 今日、午前中は陽もさして温かった。真昼から夕方にさしかかろうとした時、温い雨音がしてきた。窓を見るとしずくが屋根からおりてくる。ああ春だなあと思った。夜、小便をしに外に出ると、月明かりの下に砂漠ならぬ雪漠がひろがっていた。北斗七星がうっすらと見える。PC漬けの目のせいか、ぼんやりとしか見えないんだ。気温がもっと低かったら、結晶が凍ってキラキラとしているのだろうが、積雪ものんびりと横たわっているようで、安楽な感じがした。雑木山もつぼみが膨らみはじめているに違いない。なんだかふっくらとした輪郭で風景を覆っている。空が高いなあ。と思いました。
 三月が近づいて、せわしくなってきた。統合問題もいよいよ、明後日、教育委員会と直談判だし、日雇いの予定も入ったし。よろみ村通信もあるし。過去の通信を、再度入力している。なんとも、いいかげんなのだが、過去のテキストファイルが全く無いのです。ひまつぶしと言われそうだが、私はよろみ村通信の賛成派なんで。くだらねえなあと思いながらはじめたのだが、なかには新たな理解を与えてくれる文章も結構あって、いつの間にか読んでる。すでに死んでしまったitayaさんやhirota emikoさんの文章はほんとうに面白くてためになるという感じです。自分のは
ちょっとつらくて読めません。が入力はします。なぜこんな言い方しかできんのか。なぜ、すべてを人のせいにしているのか。我慢して読んでいると、決して意味のないことではないと思います。
 書いた人に対する先入観でしか読めないのだなあと強く感じます。いいわるいの基準も、明確に持っている。それはかなりの驚きです。文章自体は、書いた本人から自立しているにもかかわらず、自分の理解を書いた人に返している。もちろん私の中にある書いた人です。私の中にあるその人と本人自身(なんと言ったらいいんだろう)は違うのですが、書いた本人自身も自分自身に対しては他者でもあるんですから、結局、いいも悪いも、決めようがない。事実は藪の中です。
 私がいいと思える通信原稿は、書いた人の残像がまったく感じられない、文自体が自立した文章です。書いた人はなんでこんなものを書いてしまったのだろうと思ったに違いないのです。

追記

 よろみ村通信原稿募集中。

  年齢、性別、氏、素性、等々一切不問。

   yoromimura@gmail.comあてに必ずテキストファイルで送ってください。マジです。

  締切は3月10日。

2013年2月26日

グミさんと呼びたい。

中途半端はいかんなあと思う。統合問題や、PTAの在り方とか考えているようでいて、何にも考えていないに等しかったと思う。自分らが暮らす場所がよくなればよいとか言いながら、何一つ具体的に動いてはいないではないか。次男がこのような家には暮らしたくないみたいなことを言う。出家して坊さんになったとか言っても、何にも修行しているわけでもない。ただ、今日がただ過ぎてゆくだけだ。nishikawa家は崩壊していると言っても過言ではない状態なんだなと、今頃になって実感している。地球のことよりも地域のことよりも、学校のことよりも、まず自分の家のこのありさまを変えていかねばと思っている。お父さんであったということを今やっと実感している。戻りたくないと子供たちに言われて、ほんとうに愕然としております。
 今日三井小学校の役員、理事会にて最後の最後で、会長を引き受けてくれた人がおられる。経済的に苦しい家の事情を、見せなくてもいい証文までもってきて、拒否していたのだが、閉会直前に私が「~さん、会長やろう」とふると、観念したようにうなずいてくれたのでした。何かを引き受けた時の表情は輝いていて、ほんとうにいい顔でした。炭焼きなどでも頓珍漢なことばかり言う人だったのですが、友情まで感じてしまいました。他の役員も言わなくても全面的にバックアップすることを約束してくれました。誰かが、ケツゼンと何かを引き受けるということは、美しい光景を作りだしてくれるのです。私も私を引き受けなければなりません。グミさん、がんばりましょう。

2013年2月25日

次期PTA会長決まる。

 昨日、小学校のPTA会長の選出のために、規則上、該当するご父兄3人に集まっていただいた。どのような顛末でなったにかかわらず、私のいろんな思いにかかわらず、私が現在のPTAトップなのである。規則では新しい5年生の父兄から選出することになっている。
 規則だから、規則だから、規則だから、うん。これしなないなと考えつつ所定の場所に向う。到着したが、足が重い。…。なんとかたどり着いて、ふすまを開ける。丸型の石油ストーブのまわりにうつむいたおやじが三人。顛末は御想像におまかせします。が、印象に残ったシーンは私は規則をたてに、怒って、(たんだろうな)「なんでできないんですか」「だってできんげって」幼稚園児でも、いまどきこんなシンプルな会話はないな。俺の聞き方がまずもって、幼稚だ。もっと多重の策略を練れんもんか。
 だってできんもん。できんということだけは、ケツゼンと決めてんだな。なんちゅう暗い顔しとんねんと思った。しかしながら、彼氏の顔はその時の俺の顔でもある。そう思う。なんちゅう陰気な顔しとる。うそでも元気な顔せんかい。うそでいいんや。うそで。ほんとかどうかなんて今には関係ないやろ。
 
追伸

 アメリカと日本はつくづく、対等じゃないんだな。わざわざアメリカまで会いに行って、1時間半ほど会ってもらって喜んでいる。そのニュースにワイドショーの連中も嬉々としてやがる。安部内閣が調子いいと、あたかもそれがほんとのことのように(つまりはニュースとして)放送しているが、そもそも、そのような雰囲気を醸し出しているのはおまえら及び、お前らの属する不気味なムラ社会自身じゃねえか。
 そのように決まったことに疑問を呈する人は、即反対派になって、あたかも対等に対峙しているかのような場所に座らせられるんだ。

2013年2月21日

ずるずると。

ふわふわした、積もりやすそうな、軽い雪が降り続いています。もう、峠を越えたなと思ったのだが、ずるずると積もっています。ずるずると。うーmmmmm。三井町は輪島のチベットだと、先生がよく言っていました。
yoromimura通信 28 1996 秋。 ezaki mitsuru。これは明らかにほめ言葉ですぞ。お父様。

2013年2月20日

つねに、原発事故後。最短で300年間。最長で2億年。

組織っちゅうんですかね、目に見える部分が、何かをやろうと決めた時にその何かは発表されるんすかね。これをやろうとおもうんだけれども、どうだろうかと、決める前に発表されるっちゅうこともあるんすかね。どっちが多いんすかね。
 民間の私利企業と、人の金をあずかって運営している、たとえば、地方公共団体では違うだろ
うし。何かを本気でやろうとしているのが組織の目に見えない部分に属しているとなると、どちらにしても、それはあんまりよくないんじゃねえのという声は届かない。すでに目に見えない部分に沿うようにして、利害関係者からうごめき始め、中間にもろもろのものをとりこみながら、最終的に多くの目に見えない人たちの無言の声が、何か、の全体をゆるやかに覆う。それ、おかしいんじゃねえのは、不思議にも緩やかな幕に覆われたこの、何か、に必ずたどりつく。
 さて、目に見えない部分っちゅう言い方はあまりにも抽象的ですね。これが最大のなぞですね。それ、やめてほしいなあが、増えるほどに抽象度が増していく。これはかなり怖いことですぞ。この部分は目に見えなくなって、しかも無くなりそうもない。(決して、放射線のことを言っているわけではありません)何かをやろうと決めた人物や団体が仮にあったとして、彼らのコントロールの範囲さえ、越えてしまうんですから。コントロールできる意思はこの世にはほとんどありません。地球外生物はこれに全く興味を示さないでしょうし。
 何事も起こらず、よりよく機能する、何か、がほとんどで、そうした事例はとりたてて、騒がれることもなく、ふつうのこととして日常を形成していることと思います。問題は、問題がありそうだと騒がれた、何か、です。致命的なことがあった時に目に見えない部分の不気味な意思は、いろいろな場所で試験紙に反応するようにして出現しております。いまだに放射線が放出されている状況を見ないようにしているテレビなんぞ、その最たるもんだと思います。(あれ、放射線のことをいいたかったわけじゃないんだが)

2013年2月19日

学んでおります。

 お昼、erikoさんが、晩飯のことを考えていて、野菜がないなあと言ったので、ハクサイ掘るわと答える。そんな気なんかぜんぜんなかったのに、条件反射で口がすべった。雪中のハクサイはまだまだ、たくさん残っているので掘りたいとは思っていた。今年は前年にくらべて大きく結球したのが多いのでした。漬物にすれば長く食えるしとも思っていた。
 1時間たらずで、10個ほど掘って、夜haginoさんのアトリエに向かう。中学校の統合の話。議会が来月早々に開かれる。保護者から特段の反対がないかぎり、統合にむけて条例改正がされる模様だ。その前に教育委員会のいいかげんな目論見に対する不満をぶつけるために3回目の勉強会を有志で開くことになった。その際、市議会議員や教育委員会側からの出席がありそうだ。で、何が問題なのかをリストアップする。こうした検証がなされる度に、いったいなぜ統合するのかという問いに対する答えが見えなくなっていく。行政は教育コストの削減が理由ではないと言う。議会は表向きには、教育委員会側に説明不足が感じられると言う。賛成の親は自分の子供のことだけを考えている。そしてhaginoさんから建設業界紙の記事のコピーをもらう。着工年度や、基本設計費の予算計上の予定が事務的に書かれてある。教育委員会の理念が統合を進めてはいるが、行政や議会の観念と建設業者の金銭感覚も交りあって、統合推進の主体がわからないんだ。誰にどのような文句を言えばいいのかわからない。無言の民意も明らかに背中を押している。
 帰り際、haginoさんと小学校のPTA会長の人選が難航していることを語り合う。haginoさんがほんとうに不思議がる。「なんで、PTA会長ぐらい立候補する人がいないんだろ。なんで子供の環境がよくなるってことを素直に思えないんだろう」「haginoさんなりませんか?」規約はどうにでもなりますからと提案する私なのでした。いやいや、会長をやっているのが丸わかりだ。統合に反対する時には、これからの三井地区への積極的な展望がセットではないと成立しないような気がすると言うと、haginoさんも深くうなずいてくれた。いっしょに何か考えていきましょうとは言えなかったが、ちょっと前向きになれた瞬間でした。自分の生活をしっかりとやっていくことが、直接、自らの生活する地域を活性化すると思えたのでした。活性化という言葉になんの抵抗もないのでした。東京で生まれ育ってアメリカで仕事をしていたhaginoさんと話していると、田舎の心性を最もバカにしていた自分が最も田舎の心性の具現者であることを思い知らされます。

2013年2月18日

学校関係者評価委員会。

 学校関係者評価委員会に出席。校長室で午後4時からっちゅうことで、ただその場におればいいんやろと自らをはげまして、学校に着くと末娘をはじめとする児童数名が小さな雪山で遊んでおった。子供好きではないのだが、無邪気にきゃっきゃっとしている様は希望に満ちているなあと思う。学校というと中学校統合のこととセットになっているから、この子らはやっぱり新しい中学校に通うことになるのだろうかと思う。三井地区の大人は、どうも消極的な統合賛成に傾いているのか、あるいは、統合いやだという声をすくい取る努力を全くしてこなかったこちらのせいなのか三井町から中学校がなくなることを止めてくれと言う声が聞こえてこない。末娘じたいが、強がりなのか、新しい学校の方がいいと言う。そんなことを考えながら、校長室に向かった。
 校長室に入ると、8人の人がすでに着座し番茶をすすっていた。定刻の5分前なのだが10分前には皆そろっていたのではないか。これが、三井ルールなのかもしれん。市街地は定刻から20分遅れても許される。30年ほど前の話だから、wajima市全体がこのように変わったのかしらん。上がり症のくせに、何か言ってしまいたがる。「文部科学省の通達などで、先生方は全国一律のしばりを受けているのでしょうか?どうも生徒に全力的に向かうことを遠慮しすぎなのではないですか」「人口密集地帯の学校とこんな小さな学校が同じルールのもとに学校運営がなされるのはいかがなものか」おっうまく口がまわっているなあと陶酔しながら、さらに隣に座っていた方の重箱をつつくような発言に少し、切れながらも(いじめの話だった)「先生が全てを補足できるという前提でいじめをゼロにしようなんていうのは、むしろ逆効果なんじゃないでしょうか」と言った。
 違うそんなことが言いたいんじゃない。かといって、何が言いたいのかがわからなかった。ただ、黙って座っていることに耐えられないんだ。だからなんでも言う。先生5人と応接机を挟んで学校関係者が4人座っている。緊張で固い首を回してどんな人が来ているのだろうと思い、見ると一番向こう側に座っている方が、ふだんタバコをよく買っていた店の御主人でありました。自販機用のカードを持っていないので店に入り、いつもタバコを一個買うのにすみませんと呼んでいる。この方が学校の田植え行事でお世話になっているあの方だったのだとわかる。妙に感動してしまう。夜、統合のことでhaginoさんから三井地区にも、~さんはなんとか学校を残せないかと文句を言っていると教えられた人は、隣に座っていた方本人でありました。重箱のすみを知っていたのは、元学校の先生だったからなのでした。(もう一人の女性は、私が中学校1年の時の担任の方でした。初めての赴任地だったと記憶しています。すでに定年で退職されています)
あいかわらず、ぼそぼそと、歩いております。
三井地区のことなんか、ほんとうはどうでもいいんだ。子供たちだってなんとか新しい環境に順応していくんだ。と思っている。末娘はいじめられんかなあと漠然と思っている。末娘の学年のお母さん方は、積極的に統合を望んでいる。具体的な理由もある。末娘は同級生たちとぎくしゃくしないだろうかと心配している。あいかわらず、このような平均的な父兄を演じようとしている。私には、自分の住む場所をこのようにしようというはっきりとした姿が見えないのです。大阪で小5の男児が電車に飛び込みました。「どうか一つの小さな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください」とメモがあったそうです。小5で、自分を一つの命と呼ぶことに腹が立ちました。でも彼にそう言わせているのは、やっぱり大人の方なのです。自らの住む場所は抽象的なだけではなくて、目の前に広がっている。自らの住む場所がよりよくなるように思え。重箱のすみっこで安住してんじゃねえよ。と言われている。子供たちはきっと、そう言いたいんだ。悲嘆にくれているであろう男児のお父さんの言葉が新聞にありました。「親も含めて、もっともっと話を聞いてあげないといけなかった。話し合いをする中で考えを深め合うような経験をしてもらいたかった。後略」ほんとうにそのとおりです。   合掌。

2013年2月16日

第三者的機関。

 昨日、小学校に行く。文部科学省が体罰に関する緊急アンケートを全国の小中学校に実施させた。その結果を開封するのに立ち会うためである。今、流行の第三者によるチェックということであろう。学校と細かい行政システムは知らないが、文部科学省を頂点とする教育機関の外部ということで呼ばれたのだが、このようなありかた自体を決めて実施を求めたのが、当の文部科学省なのだから、この場所に外部はない。PTA会長たる私に、子供たちの教育環境への監視の目があれば、外部と言えないこともないが、私は漠然とした倫理感はあれども、個別の事象としての責任感はなく、どちらかと言えば、特別なことが起らないことを願うぐらいで、はなはだいいかげんな幽霊のようなもんです。
 日本銀行と政府との関係も、つくられたシステムの観点から見れば、互いが互いを自立した存在として干渉しあうことが大前提と聞いています。今回の新政権にて、デフレ脱却のために、通貨供給量を増やそうとして、総理大臣と日本銀行総裁が手を取り合っているさまは、日銀の総裁のさえない顔のせいもあってか、行政主導であることは誰が見ても宜ってもらえると思います。通貨が、ただの印にまで進化した現在において、独立した第三者を想定すること自体が、すでに想定外なのです。これ以上の文章の簡単化は、かえって、現在の状況を複雑化することにしかなりません。あるいは言語の限界にまで達したということでもありましょう。
 ようするに、簡単なことなのです。わかるかわからないかという問題でも無いですし。それぞれが、互いに、抽象化しあった世界を共有できるかどうかということです。私という個人感情は、見事にこうした簡単で無慈悲な世界に潤いをもたらしてくれます。本末転倒こそが世界誕生のはじまりなのです。このことは何千年経とうが、何万年経とうが変わらない。あやまちを犯さないでおこと思うことが、すでにあやまちなのではないか。
 …と思ってきたのだが、このような分析的な言葉は人の抽象性を輪郭づけているだけではないかと考えてもおります。考えることの原点に立ちたかったんです。思う存分に考えてみたかったのです。揺らがないものなど無いという事実の承認には、いまだにトゲがささっていて、集中できません。そうしている間にも肉体はどんどん老化のスピードを速めております。そのトゲがただちに健康に影響が無いにもかかわらず、気になって気になってしょうがないのです。この小さなトゲを自分で抜き取る。それは可能なことであると思えるのです。

追記

 1
 来年度のPTA会長の選考が難航している。毎年新5年生の保護者から選出するという規定なのだが、児童数が5人、みなが俺だけは余裕がないと言っている。みんなそうなんですからと言っても、いや、私の状況だけはこれまで人類が経験したことの無い余裕の無さなんですと言う。ふざけんじゃねえよ。とここで言っておきたい。総理大臣になりたい人が皆無の国はどうなるんだろうと、飛躍してしまった。ところで、PTAという組織はいったいどのような位置づけにあるのだろうかと考えると、答えのないという安心感のせいか、なんだかドローンとしちゃったのでした。先生は「私たちがタッチする問題じゃない」と言う。教育委員会は「言わなくてもわかるでしょう」とは絶対に言わない。定義付けは無限にあるようで、いまだにだれ一人実感した人はいないのではないだろうか。文章規定は確かにある。が、文章の中に肝心のことが決定されていない感じがする。法律とはそのようなものなのではあるのだが。主体そのもののことを定義づける主体が無いのである。主語は明確に冒頭で定義づけられているのにもかかわらず。

 2 
 近頃、本を読まずにネットでの文章ばかりを読んでいる。ふと、選ばれてもいない一般人の文章ばっかり読むと体によくないんじゃないかと思う。本というのは商品ですから、必ず何人かの検討を経ている。内容や文法などの不具合を修正した後で、読者は読んでいる。しかしネットの」文章は作者以外の検閲が入っていない。それに間違っていたらいつでも修正できる。隠語のような特殊記号だけでほとんどできあがっている世界はすでに、たくさんあるが、私が心配しているのは、微妙に間違っていて、微妙に合っている文章なのです。です。そして内容ではなく、文法なのです。ささいな心性の変化は、まっさきに旧来の文法(正しいとされる)にあらわれると思うのです。無邪気に文法があると思っているものが、知らないうちにそのような文法に囲い込まれてしまうことを危惧するのです。心性が文法から変えられてしまうのが、世界だと思うからです。私のブログも、素人の無責任でできあがっております。ご注意ください。って、おおげさな!

2013年2月8日

授業参観。

末娘の小学校の授業参観日でした。男女5人づつで10人。少ないっちゃあ少ない。来年はもっと少ない。少ない少ない。テレビをつけるとにぎやかで、元気な老若男女がいっぱいっちゃあ、いっぱいだ。授業後の懇談会で、中学校統合のことを話す。反対っちゃあ、反対なんですけど、それだけでもないっちゅうか、賛成でも反対でもなく、みんなで議論する勉強会をやりますっと、ぼそぼそしゃべっていたら、お母さんがたに怒られる。いったい、西川さんは何がやりたいんですか。ぼそぼそっとぶったこれまでの活動はことごとく、すべて、論破されてしまう。結局、ごちゃごちゃやっていて、輪島市の市街地の対立を煽っただけではないかと思う。これはもう、立派な差別の問題が浮上している。川を挟んだ町と町。新しい中学校に慣れるのは子供たちの運命だが、大人が唯一やれること、やらなければならないことは、くだらなさすぎるが、決して侮ることができない町内対立の存在の共有である。(この問題の解決は、私の夢のようなものだ)タブーは言語の枠内に簡単には訪れることがない。今回の統合はこれまで大人が脳裏にはっきりと意識しているのにもかかわず、決してそういうことがあると問題にしてこなかったことを見事に抽象してくれた。抽象的場所では、世界そのものがこうした構造にあり、次元がまるで違うが、原発問題や米軍基地の問題、あるいは尖閣などの領土問題もそうした具合のわるい、めんどうくさい構造が否が応でも、われわれの意識にとげのようにして刺さっていることを明示してくれる。
 お母さん方は、一生懸命に一日も早く統合してほしいという意思を私にぶつけてくれました。強がりとええかっこしいも入ってはいたのだが、そこまであからさまに統合賛成の気持ちをおっしゃてくれて気持がよかった。反対派のレッテルはおおげさですよと言っても、彼女ら賛成派から見ると、われわれは一つの力であり流れであるのだそうだ。敵対すると互いが互いの等身大を見ることができなくなってしまう。「急に私は考えを改めることはできません」とへらへら言うと、あんまりへんなことすると「埋めますから」と言われる。yoromiへのかえり道。考える。問題は「俺がどうしたいのかなんだ」ただずるずる引き延ばしているわけではないのだが、愚図まるだしだ。統合中学校の仮校舎は俺の実家のすぐそばだ。なんで俺はこんな遠い山奥に戻る必要があるんだと思う。はて、どのような問題があるのだっけ?ほら、もう忘れている。忘れる!この方法があるではないか。問題はこの私だ。

追記

勉強会1回目。


2013年2月7日

封建制と一言でくくれるものなのだろうか。


 「無私の日本人」という本がまわってきたので、読みました。肝煎(きもいり)という役職が出てきます。この本では庄屋のことだと断言されていますが、そうなのでしょうか。無私ということを哲学概念的に解説されているのかと期待をしたのですが、実際は水戸黄門や暴れん坊侍に出てくるような損ばっかりしているけれでも、天から愛されている人が出てきました。この本の中に出てくる農民(百姓とういことばは中国語の中ではふつうの人という意味らしい)の中には、入念にも、自分がこんなすばらしいことをやったことを絶対に自慢してはならないと遺言までしておられます。
 今でも、中年以後の人は「だれそれさんのきもいりで」と言うのですが、肝煎という役職があったということが驚きです。きもいりという役職が何かの保証を与える意味の名詞化がなされて、今ある。庄屋というのは、中央政権から与えらた職名という領域をはるかに超えて、村に君臨している。庄屋のだんなが、人格高潔で、徳の高い人ならば美しいドラマがあり、こずるい人なら、こずるいドラマが。いずれにしても、喜怒哀楽の全てはこのようなドラマから生じてきたのだなあと思われます。不覚にも、泣いてしまいました。
 さても、民主主義というのも、ヨーロッパのかたすみで、一つのドラマから生まれたものなのでしょうか。日本の無私から、果たして完全公開の合議=民主主義と言いうることができるのでしょうか。 柳田村歴史物かたりにも肝煎がたくさん登場します。カンセンという人の名前だと思って読んでいたのです。

無私の日本人/文藝春秋
¥1,575 Amazon.co.jp

2013年2月2日

研修会。 IT:Information Technology (情報技術)

県庁(中央いちばん高いの)を中心に、開発された街。わかりやすい造りがもっともわかりにくいということの典型を示す。何の道しるべもない。あるのは全国チェーンの店の見なれた看板だけなんだ。
遠い金沢まで1時間半、車でITの研修会に行ってきました。なんとアナログな。ちょっと脱線するが、PTA活動をとおして、感じるのは、このような研修会であれ、発表会であれ、どのような催しも入念な準備がなされているということである。事細かく、主催者の行動が決められてエクセル表に細かい字で印刷されたものを、共有するのである。そればかりではなく、誰がどこでどのような発言をするか、あるいはしそうかなどを想定して、実際の催しの当日には何も考えることもなく予測された時間どおりに進行し終了する。すぐに帰る人もあれば、散歩中の犬の電信柱への小便のように雑談をしていく人もおられます。何かをすることが大切で、何かの中身などどうでもいいのではないかと疑ってしまう。中身をつっつくと、奇異の目で見られるのは気のせいなのだろうか。いや、そのような目が向けられるならまだましかな。誰もこちらを見なくなることもあるんだから。
 さて、ネット中毒気味のjusaiには面白い内容でありました。おそらく、日本の最先端の啓蒙家がそろったのかな。文部科学省、総務省の課長クラスに、現場の先生、それに日本IBM出身のネットアナリストの女性と。積極的に語られているのは、よりよきネット社会の構築なのだが、具体的策となると、フィルタリングをしなさい。スマホはケイタイの進化系なのではなくて、通話機能を持った小さなPCなのだから、複雑きわまりない防御策を調べてください。などなどと、安全安心な場所でネットを利用しましょうという話だった。子供たちを守りましょう。と。石川県は、なんでもこの逃避的行動の先進県なのだそうで、ケイタイを小中学生に持たせないための条例をわざわざ作ったのだそうだ。究極の安心技、ケイタイを持たない。
 いつかは、理想的な空間となりますでしょうという気持ちが問題を先送りしている。このような会を来年も再来年もこれからも続けることで、なんとかなると思っているうちに、老人は死んでゆき、壮年は意識自体がぼんやりとし始め、若者は夢をあきらめていく。そして、子供たちは目上の人たちが、だらだらと残してきた空間で、実利最優先で進化してきた道具を道具たらしめんとして必死であろう。必死な姿を見せないようにして。この私はいつでも傍観してきたのだった。俺は関係ないんだと。俺はがんばったんだと。
県庁。今日は土曜日。お休み。
ネット社会などと区切ること自体が、間違っているのであり、誰も区切ることができないという、ただこの一点だけがネット社会を成立させているのである。したがって、大人の総意として、われわれはこのような世界についていけないと宣言することは、全然悪くないのではないだろうかと思う。その時にはじめて、子供たち、とりわけ、中高生から、「それに気付くなんてやるじゃん」と言われ、話し合うことができるのだと思う。コミュニケーションを学ぶ際に、情報というものに対する感覚の共有は不可欠なのである。ネット社会になんとか付いていこうとするジジイどもの方が、はるかに、リアルを喪失しているのだ、ということに気付き、ITに付いていくことを断念する。これ俺の話です。



追記

 1  石川県PTA連合会「携帯電話・インターネットに関する宣言文」(抜粋)

  原則、小中学生には携帯電話は持たせない。
  インターネットについての認識を高めるために、啓発活動を促進する。


 2  石川県「いしかわ子ども総合条例」


  携帯電話」の利用制限について(第33条の2)
保護者は小中学生には、…の場合をのぞき、携帯電話は持たせないよう務めるものとします。


 3  kanazawa地区のPTAとして参加していた某国会議員のhase hiroshiがガラパゴス条例(前記いしかわ子ども総合条例)の廃止で県の教育委員会の課長をおどしていた。基本的に三流大学出の者は高偏差値の官僚が怖いんだろうなあ。だから群れるし、頭をそっくりかえらしている。
(2月1日付けアップの男性は東大でして、jusaiは胸と頭をそっくりかえらしておりました。)
俺って有名人すきなんやろな。サインもらおうかと思った。

4 ITの道具に対する啓蒙の時期は過ぎ、IT自体を道具として、目の前の諸般の事情に備えることに主眼が移っていくのだそうだ。時代はITからICTにシフトしている。

 PIAAC(国際成人力調査)




2013年2月1日

議事録。

事務局3人、市議3人、ご来場の方々、21人。新聞記者1人。


自分の発言が文章になったものを見るのは、えらく恥ずかしい。輪島市の方がえーとか、あーとか、(さすがに咳払いは入れていない)も全て含めて、忠実にテープから書き起こされてあるので尚更、はずかしい。発言の中身以上に、支離滅裂な論理なき思考体系みたいなものに覆われている自意識があるということそのものが恥ずかしい。自意識を自意識たらしめようとする、魂胆のいやらしさが恥ずかしい。決して、統合のことなんぞ憂えていないのも丸わかりだ。
 やっぱり、編集してくれよと思う。いいように汲んでくれよ。おれの考えていることを理解してくれよという甘えも満載なのがわかる。今日は、市内のPTAや市議会議員も集まる場であるから、いつもの緊張以上に、別な緊張がありました。きちんと自分の思いを伝えるという基本的なことをやれるようにならないと。と強く思う。yoromiの勉強会でのようにいったい俺は何をどう考えたらいいんですかねということを聞き手に丸あずけしてしまう悪いくせを治したい。
 いやそんなむずかしそうな話じゃねえな。なんだかすげえ勉強になるな。こういう社会的な場っちゅうのは。甘えがゆるされないもんなあ。話している時って、もっとも理解してほしいのは自分自身の方だもんなあ。相手の顔はそん時、自分自身そのものなんだな。相手そのものに、向かうことばが、俺には今まで無かったなあと思う。自分勝手ってレベルじゃねえな。そして相手から言葉をもらう心地よさっちゅうのも味わってみたいと思う。

 第一回輪島市統合協議会。議事録。西川のご発言部分。

言文一致のことなど、俺にはまるでわからないんだけれども、最初から書かれた文章は、その表現力の高低はともかく、誰が書いても、わかるものしか、つまりは読めるものしか許されないことは間違いないだろう。どう違うのかはわからんが、話されたことばと書かれたことばは全く別なものというのも間違いなさそうなのが、わかる。でも俺の文章でたまにドツボにはまってわからないものがあるのだが、その時の具合の悪さと前述の議事録の具合の悪さは、どこか共通している。私のこだわりのポイントがそこにあるという感じなんだ。性格の悪さと表現力の低さかもな。簡単にわかることをそのまんましゃべって、(書いて)どうなるってんだよ。てな感じだな。

教育委員会さまへ。

無党派の会(なんたる矛盾)、無印良品というブランド(なんたる過剰)、連絡会(なんたる無責任)。結局、反対だけではなく、あらゆる意見が集約される集団というアイマイな感じ的なことに落ち着きそうである。定義しないという定義、ここらへんで意識は止まっちゃうんだ。俺の場合。