2012年7月31日

正しいことしかしゃべれないんだろうか。


午後3時まで、田んぼでうだりながら排水用の溝をきる。あまりに暑いので超休み休みで。小川に降りる。手をついて、四つんばいになる。ついでに、ズボンについた泥を洗いながすと、ついでにパンツいっちょうになりたくなる。正午近くだと老人だらけのyoromiでは、人影がない。こんなかっこうじゃダメだろ、みたいな倫理感がはたらかない。ここは人里はなれた地域、集落。
 午後4時から統合協議会という教育委員会の諮問機関に呼ばれている。jusaiはおおぜいの人のいる場所が苦手なので、憂鬱だ。こういう時には、ほんとうに体の心から力がわかないんだ。かてて、くわえて、この炎天だ。今日は何回、両膝に両手を乗せて、野球部員のようなかっこうをしただろうか。もういやだあとつぶやいただろうか。田んぼに入ったその日に、こうした社会活動はいやなのだが、こうなってしまったのだから仕方がないとムチうつ。bunka会館の所定の場所に入室すると、思ったよりもこじんまりとした車座がセッティングされていて、決められた席に座ろうとすると、市長発の委嘱状まで置いてある。なんか、エラクなった気がする。そして、jusaiはそうしたワナにはまって、それほど、真剣に思ってもいないことを、真剣にしゃべってしまう。言葉を使うということは、jusaiにとっては、真剣なことなのだという思い込みがあるのかもしれない。
 ここらへんが、jusaiの限界なのだ。それ以上でもそれ以下でもない感覚を絶対視しているのかもしれない。真剣に思ってもいないことを、真剣にしゃべること。と、真剣に思っていることを、ふざけてしかしゃべれないこと。とどちらのどこが、真剣なのだろうかと思ったりもする。そうなると、怒っているようにみえるが、実は機嫌がいいのかもしれないとも思うし、笑っていて、機嫌よさそうだけど、実はムチャクチャ怒っているのかもしれんなあとも思う。人間関係にひっかかってしまっていると、村田住職に言われたことがあるのだが、ふんとに、そこがjusaiの限界なのだ。
 残された道は、限界を受け入れること、日夜思っているのだが、ふんとにむずかしい。


四角田。 茎がふくらみ、お米のつぶつぶが透けてみえる。いつ、穂が出てもおかしくない。
統合協議会の帰り道、市街地からの遠さをありがたいなあと思う。田んぼ、多いなあ。口元がどんどんだらしなくなってくるのがわかる。やっぱり、あのような場所はいやだったのだ。



2012年7月30日

薪づくりの季節。つまり、チェーンソーの季節。

貨幣などの通貨を経由しない価値の創造にして、熱いという、これ以上分割しえない属性を持つ火を直接実現でき、なおも、このくそアツい真夏に冬を準備するという贅沢な時間をためることができ、見ているだけで真の意味で、豊かであると実感できる。
 少し、二酸化炭素を出すが、この程度ならただちに地球には影響影はないだろうとイェーツの丘、木々が言う。しかも、消えてなくなるのだった。(ゴミが出ない!)
itaya家の薪やま。

51 才海へ。^^

ウツと書いたら、miyatakeさんが心配してくれた。jusaiは久しぶりに来たのに「ホントにウツだったら自分のことウツだって言えるわけないじゃないですか」。ブアイソウですから。と言うと「ホントにそう思ってる」と言うてくれた。ありがとうmiyatakeさん。
miyatakeさん。軽ワゴンの野菜販売、キラクにはじめましょう。錬金術ばかり考えている余裕がなくなってしまったので、いろいろ金を得る手立てを考える。tonariのitayaさんに、家との間のススキ、ツルツルに刈ってもいいですか。なんか、果樹でも植えようかと。「エエんでない」との許しを得、なおかつ、カネモウケに賛同も。こんなド田舎で、自分の子供をただ、食わすだけではなくて、高等教育を受けるべく送り出せるくらいのレートの金額を得られるカネモウケをするときにはハンパなことなんかやってらんねえ。裕福な親族や高額な援助をしてくれる友人知人を持たないサビシイ人は特にそうだ。大多数の人はそうなんだが。
PTA会長として、罰ゲームじゃない、奉仕活動。「社会を明るくする運動」
jusaiのひいじいさんは、wajimaで西川商店という雑貨屋で儲けており、jusaiは大学で商学を学んでいる。いよいよ、jusaiは本領を発揮しはじめるのである。スケールの小さい話で申し訳ないが・ビジネスじゃなくて、ショウバイね。




あまりに暑いので、軽トラは末娘を乗せて、いつのまにか、海に。sedegahamaの砂浜から、kamouraの岩場に。群れをなす大岩の外には、いまだに、しかもちゃんんと、荒れた日本海があったのだ。深く荒れた海はいやおうなしに、一人の人に戻してくれました。

東京ディズニーランドでなくて、すまんなあ。金が。

2012年7月22日

落水。

 田んぼの水を落としました。あとは、適宜、水を入れることになります。雑草は多いところは多く、少ないところは少ないです。コナギより、オモダカが目立ちます。米ぬか農法、採点すると、赤点すれすれというころです。すでに、穂をつくりはじめています。茎が膨らんできました。8月に適宜、雨が降れば大助かりです。用水の水だけが、気がかりです。病気は心配ないように思いました。
 jusaiちょっと、ウツのようです。ブログしばらく休みます。許してください。

2012年7月21日

薪準備終わり。

一人で仕事をしていると、耳鳴りもうるさいけど、自分がうるさい。うるさいと感じるのも自分だけれども、どちらかといえば、うるさいと感じられる自分の方がはるかに多い。うるさいと感じる自分がいるときにだけ、うるさいと感じられる自分は存在できないのだから、もちつもたれつです。しかし、両方が、同時にあることはないですな。常に、私という場に存在できる自分は、どのようなタイプであれ、どれか一つですな。だから、現実に今あるのはどっちの自分だと、考えたら、もう検証不可能ですな。おいてけぼりをくらわせられながら、おいつこうとすることが、人生の全てだ。
最近のひらめき。思考と言葉と意識は絶対に同時発生なのではないか。で、常に今あるのは、その中のどれか一つなのではなくて、すべてである。たまたま、そのうちのどれか一つにこだわってしまった場合、そのこだわりから、一瞬でも抜けることは無理なんではないだろうか。自分でつくってしまった囲いは、出ることは、無理。だが、出る方法があるし、出た人もたくさんいたことだろう。
また、意識と自意識がまったく違うものだということを、表現することは無理だと思うのだが、これまた、すでにある。と思われるが、それは読めても、理解できても、伝わったことにはならないと思う。自意識を自分の意識だぐらいに思っているやつには、読書ということの本質を知らないものには、読めないと思うのだ。
自分という感覚は、そんなに古くないと思うが、一端知ってしまったものは、知らなかった時のことを、それが、たとえば、昨日だったとしても、全く思い出せないのだった。
アブやブヨは、両手が使えない時を見計らったようにして、やってくる。ブーンブーンと自分のまわりを旋回します。「ほんとにズルいやっちゃな。スズメバチかと思ったぞ」だが、叩き落とすと、中身がほんとうにスカスカだ。あわれなヤツやなあと思う。「やっぱり、ホンモノのスズメバチはレベルが違うな」。ハエもわざわざ、付いてくる。うるせえなあ。おろかな連中だ。そして、夕方、一服こいていると、目の前に女郎ぐもが、もさもさ、上下左右を行ったり来たりしているのが、目に入る。「器用やなあ。繊細な技やなあ」。いや、あれは本能的な動きなんであって、あいつらはエラくない。「いや、やっぱり、研鑽したんやって」。やっぱり、自分はアブやブヨと発している波長が一緒なんだなあと思いました。スズメバチやクモのことは全くわからない。
昨日の夜、やはり玄関外で一服こいていたら、左後方で、アフン、あへとかみたいな高波長の音がした。以前からよく、マムシを見る場所で、もしかしたら、子供のあれかっと、怖かった。「頼むから、許してください」とお願いする。なんだか、未知の生物から送信された言葉なのかもしれないと思うと、カエルや虫のなきごえも怖くなる。「お前、ビョウキなんやから」と自分が自分に言い聞かせても、ごまかせない雰囲気がある。もはやちょっとした物音にも意味をさぐろうとする。人間って、じゃないな、おれって、もしかしたら、なんにも知らんのかもしれない。と思う。玄関をあけて家に入ろうとすると、ガサゴソという物音の正体が動いていた。忘れよう。と思うとすぐ忘れられるのが、救いだ。自分と私と己は違うらしく、正確な説明も、特に仏教の教学の場では、ほぼ判明もしているらしいのだが、これだけは自信がある。この私という自意識では、そのようなことは絶対にわからないと。この強烈な自意識はこの私にしか触れないのだと。誰の、どんな意見も全く参考にならないのだと。クモの糸を見ていたら、芥川龍之介を思い出した。あいつ、36で死んだのか。若かったんやなあと思いました。でも、やっぱり、自分のあとをついてきたら、蹴飛ばすやろなあと思いました。
俺を一番疲れさせているのは、俺なんやなあと。


追記。

結局、8束もらった。どうも、束が小さくて、中の木切れも薄くなったようです。ゴミとしていたものを、ゴミではないことにしたのだろう。会社は厳しいのだ。

明日は田んぼの水を落とそうと思う。

2012年7月19日

前を走っている軽トラから菓子パンが差し出された。森下さんだった。

どこもかしこも、草ぼうぼうで、クサカリも各所でやられているのだが、すればするほど、草ぼうぼうが際立ってくる。アザミはまだ、咲いているが、ほとんどが、枯れてしまっている。しつこく、まだ、田んぼに水を入れ続けている。あと2,3日で、水を落とすというのに。10年ほど前には、いつもにこにこ話かけてくるおばあちゃんがマジな顔で「もう水はいらん」。5年ほど前には、yoromi銀座田の用水から水を上げようと近づいただけで、玄関を突然開けて、「また、水を入れるつもりかいね」と怒られた。夕方にタマワリすると、真昼どきにお日様から隠れていた古老たちが、畑などに出てこられます。田んぼに水を入れようとすると、みんなの神経がこちらに集中してくるような気になります。みんな、どこかに刻まれた田んぼ暦があるのだろう。でも、基本的には秋の収穫時のコンバインのために、早めに落水するようになっただけで、もしも手で稲刈りをするのならば、もう少し長く水を田んぼに入れていてもいいのではないだろうか。と思う。
 yoromiのコシヒカリはこのままの天候が続けば、8月初旬に穂が出はじめるのだが、穂の出る前後は稲が最も、水を欲しがる時期の一つに数えられているのだからもう少し水を入れていたいと思う。でも、コンバインが入れないと、困る。てなわけで、7月下旬に水を落とすのだ。
木っ端の輪切り。チェーンソーの刃さえ切れれば、一冬ぶんは超ラクなんだが。

貯金のようで、通帳を眺めるように眺める。

2012年7月18日

暑かったです。

暑かったです。うらまれそうですけれども、太陽が沈んだ後は涼しくなりました。熱帯夜は、数えるほどしかありません。ありがたいです。これまた、おこられそうですが、散歩中のkouhuおばあちゃんは耳がよく聞こえないようで、後ろから軽トラで近づいてもゆっくり、歩いておられます。クラクションを鳴らさずに、少し離れて、気づくまで待ちます。どんなに急いでいても、クラクションなどで、どいてもらわないでおこうと。私の器が大きいからではなく、また、善意からではなくて、はたまた、経済的にも余裕があるからでもなくて、このようなぜいたくな時間があるかと思ったからでした。短気で小心なので、どうなるかはそのときの自分の状態しだいですが。もうあせっても、仕方がないほど、失敗続きなのででして。とにかく、一瞬息を呑む。ということを心がけたい。

2012年7月17日

木っ端です。

冬の薪を準備し始めました。wajimaの市街地にある、製材所の木っ端(製材した後の木の皮に近い部分)の束をもらってきて、チェーンソーで輪切りにして積んでいきます。2トントラックに2束重ねて持ってきます。だいたい、6束ぐらいで一冬分です。チェーンソーのエンジンうるさいので、ボヨヨンと静かなyoromiムラで主役のように主張します。刃の調整がへたなので、なおのこと、うるさくなるんです。こんなんで、山暮らししてるんかいとはずかしくなるんです。
恥ずかしいといえば、製材所を実務的にとりしきっている専務さんは、中学時代、野球部の後輩です。私が、3年生で主将をやってきた時になれないジャージ姿でやってきて、おどおどしながら、あるいは、希望に胸をふくらませて、「やきゅうぶにいれてください」と私に頭を下げてきました。私は「おういいだろう」ってな感じで、重みを演出しつつ許可しました。前任の主将がすこぶる厳しい人で、キャッチャーというポジションも同じで、野球に対する技量と熱意が全く正反対ではありましたが、どこかで、前任の主将の物まねをやっていました。その極端がケツバットでした。ちゃらちゃらしていたわけでもなかったのに、たぶんイライラしていたのでしょう。「おう。一年生ちょっと集合、並べ」「お前らなんでおれが集めたかわかるか」「たるんでんだよ」みたいなことを言いながら、一年生を並べて、後ろを向かせて、順番にバットでケツをなぐったのでした。その中に専務さんもいたのでありました。うーmm。中略。私は高校一年で野球をやめました。明るいうちに家に帰りたいという理由だったのですが、実際はどんどんうまくなっていく後輩の後塵をはいするのがいやだったからです。案の定、私の1年後輩たちは、夏の甲子園予選で決勝まで行きました。(決勝の相手は箕島高校と死闘を演じた星陵高校でした)2年後輩たちも準決勝まで行き、再び星陵高校に破れました。そして、専務さんはプロ野球のスカウトもやってくるほどの投手だったのです。うーmm。
よくもまあ、ずうずうしくも生きてこれたものだと、彼の顔を見ると逃げだしたくなります。いまだに、この途中落伍者を先輩として扱ってくれます。丁寧なことばづかいがたまらなくなって、「お願いだから、その口調をやめてもらえませんか。私はもう先輩じゃないんですし」と言ったことがありました。今日、最初のあいさつで、~さん、今年も木っ端よろしくお願いしますね」とはじめて、名前をさん付けで呼んだ時、少なくとも、私の中で何かが一つ、落ちて行きました。終わったんです。専務さんの中ではとうの昔に終わっていたのでしょうが。


追記。

四角田のカモのタマゴは、おそらくカラスに食われたものと思われます。カラが一つだけ散乱しておりました。

2012年7月16日

お母様あ〜。

アカメガシワ。花が咲いている。

ネムの花。


自宅前のアカメガシワは、ロシナンテという老馬が死んでから、急激に大きくなった。草という草をはんでいた彼が結果的に残したものだから、彼が残したという冗談を私は信じている。冗談を裏打ちするように、たまたま本棚にあったフレイザーの名著「金枝篇」(岩波文庫)には、カシワが金枝を守る聖樹とある。一説によれば、フレイザーは大学の研究室をほとんど出ずに、呪術的世界を詳述したらしい。事の真偽は別にして、人間の想像力はどこにでも馳せる。めんどくさくて、本を読まずに勝手に、今自分が半ば冗談と思っている私の伝説をフレイザーの想像に重ねるという遊びを本は提供してくれる。一切の思考そのものが、呪術的世界への扉を閉ざしてしまうという直感を、逃げの一手としながら。拾い読みする文章への共感が、限りなく、真実に近い形故に、最も有害なテキストであると自戒もしつつ。
ネムの花が咲いた。梅雨の終わりを示すと、みなが言う。長いこと言い続けられてきたことは、自分が狭いところを右往左往していることに突き刺さるようにして長い時間を感じさせてくれる。蜩がその短い生命の音楽を奏でる時、私は私が有限なのだと私に言い聞かせる。イエーツの「丘が丘に重なるところ」を見つける一瞬の夕暮れなのである。
ふと思う、かつては、自分の死ぬ時を決めて、それから逆算して生きた者がいたのだと。そのような行為がたくさん重ねられて、人類は人間としての時間を蓄積してきたのだと。無限とはそのような有限の自意識が作り上げた今、ここを示す確かな名前のうちの一つであるのだと。
四角田。
今日、最後の田んぼのクサカリをしていて、いきなり目の前からカモが飛び立った。鈍感なやつやなあと思いながら、歩を進めると、そこには自身から抜き取った羽毛に覆われた中に7個のタマゴがあった。お母さんだったのか。いつもならば、遠くで私の足音を聞いただけで、不器用に田んぼから離陸するのに、わずか、1m先に獰猛なエンジン音が響いているのにもかかわらず、タマゴを温めていた。私はそこだけ草を刈らずに、刈り草をかぶせて、クサカリを終わらせる。カラスとトンビがいる。獲物を狙う鳥獣と、見て見ぬふりをする人と、いったいどちらが、冷たいのか。どこかで、えらい人がうまくやってくれていることを期待しながら、わずか80年の生存を自明な権利として消去法で考える私と一瞬先はどうなるのかわからないところで生きている鳥獣たちとが、同じアゼまわりで立っている。


追記。

勉強会田んぼ。

2012年7月15日

2012年7月14日(土)のツイート履歴

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2012年7月14日

クサカリ。もうちょっとでオワリ。

田んぼを見に行って、軽トラの窓からなにげに見る田んぼと、クサカリでアゼ際から見る田んぼと、クサトリで中に入って見る田んぼは違うんです。心の焦点距離が違うというか。軽トラから見る田んぼには、ほんとうはこうしたかったみたいな理想の姿との対比があります。アゼ際から見る田んぼにはあきらめという、後悔があり、実際に中に入ってしまうと、まぎれもなく、そこにある稲の姿しかありません。もちろん、そのような状態になるためには、理想をあきらめて、今ある姿を受け入れるという短い時間が必要ですが。すべての不手際は記録されずとも、わが心にすべて記憶されています。見事に忘れてしまうのですが、たくさんの不手際の中には、次の年に覚えていることもあります。そのような積み重ねの上に田んぼはあります。田んぼは不手際と効果的な努力の両方ともを、平等に記録していると思うのです。
中央 アオサギ。 yoromi田んぼ街道のどこの田んぼだったか。
中学校の統合の話や、原発問題なども賛成と反対という二層だけでしか話ができないのだとしたら、ちょっと窮屈です。どのような思いも聞く耳を持つということはjusaiのような短絡にはむずかしいのですが。




ばばなき田2。ほんとに草がないんです。
はじめよければあとは、田んぼが勝手にやってくれます。この場合はただの傍観者であります。

2012年7月13日

(2) Facebook roku(yoromi second generation)に頼んだ件。

From Evernote:

(2) Facebook

Clipped from: http://www.facebook.com/
輪島市の学校のPTAの方からの依頼を受けまして、この場をお借
りして平成28年度より、松陵・上野台・三井の3校の統合につい
てお知らせさせてもらいます。
それと同時に卒業生の皆さんの賛成反対は問わず意見が知りたいそ
うです。とりわけ卒業生達の何気ない感想が聞きたいとの事ですの
で、なんでもいいので
意見、感想いただければと思います。
よろしくお願いします。
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