2012年2月28日

勉強会二回目二日目。

うろうろとするばかりのものには問いが実はなかったのだ。何かを考えていたのではなく自分を思っているだけだったのだ。自分を考えていたのではなく、自分を思っていただけなのだった。だから外に向いてもおらず、問いは自問自答という名の同語反復だったのだった。外と触れることが即、自分であり、自分の言葉なのであった。まちがえていたらごめんなさい。阿弥陀さまはこのようなところにもおいでくださる。

2012年2月26日

勉強会二回目初日。

今冬二回目の勉強会でした。絶対的な神様のことなど何も教えてくれない仏教ですから阿弥陀様を神様の異なった形をしたものぐらいに思ってしまっているものからすれば、西洋人と同様の私がなければならないと思ってしまている私からすれば、二重三重にややこしくなった自意識をもって絶対他者を考えてしまいます。考えるということはまず、最初に二重三重に重なっているものをはぎとるためにいっそう、絶対他者が遠くなります。でもこの遠さが時間的空間的な距離ではなくて、ものすごく抽象的な距離となります。あらゆる解釈を超えて、現実にものを考えようとする私はここにありますが、表現のしようもないものとして抽象度だけが巨大になってしまっています。よかれと思って考えることそのものが、複雑さを高めます。自分が自分のことを考える時は特にややこしい。
 ほんとうはものすごく簡単なことなのではないかと、勉強会で説法をしてくれる人に気づかされる瞬間が何度もありました。今日の佐野明弘さんの話では気づかされるということ自体ではなくて、そのことはむずかしいというより絶対に不可能なことなのであるということまで気づかされたように思いました。わかる可能性などないということを断言しているのは佐野明弘さんではなくて私自身の中の私自身から遠い遠いところにある、言葉で抽象するより手立てのないものとしてありますが、こうしたこともどこか感情的なイメージに過ぎないと思うとむちゃくちゃ恥ずかしいものとして自分があることを痛感させられます。自分が自分だと思っていることによって自分があることを知らないという恥ずかしさであります。自分が他者に対して堂々と恥ずかしがっているということがとても恥ずかしいことだったのだなあと思います。自分が恥ずかしい存在なのではなく恥ずかしさそのものが自分であったのだ。やっぱり何が言いたいのかわからなくなってしまいました。

わからないと知ってはじめて知ることの可能性が生じる。

プロの作家のすごいところは、人とは違う特別なことを書けることではなくて、あたかも普通の人がいるかのような普通の世界を書けることだと思う。何かを書こうとするド素人は自分にしかわからないことを書こうとするするものが多く、文章そのものが普通ではなくなっている。では普通の文章なるものはあるのか?普通の世界を普通の文章で書くことに何の意味があるのかと思うが、残念ながら自分にはわからない。自分というものが特別であることを疑えない私には一人のシンパシーも知人もなく、最低限の普通もありえない。特別な状態が普通なんだとも思うが、これは単なるレトリックというやつだろう。どうして、普通をわかったように普通と言えるのか。書き言葉そのものが普通の素地を生み出しているとしか思えない。いいとかわるいとかの問題ではなくて、書かれたものがあるということに疑いをいだいた書かれたものなどあるのだろうかと尋ねたい。唯一生きることそのものが苦であるとゴータマシッタルダが言ったと書かれたものに可能性を感じるのは偶然でも、出版社の宣伝によるのでもなくて、求めざるをえない事情が私の中にあるのだ。作家には草野球や、草芸術家というジャンルが存在しないと思うからプロ作家という言い方をしたのだが、彼らの書いたものの中に出てくる登場人物がどんなに異常な存在であったとしても普通に読めるのは作家の力なのだろうか、それとも読者の力なのだろうか。あるいはほんとうに実在するほんものの世界の力なのだろうか。どんどんわからなくなっていく。

2012年2月20日

めんどくさい私です。

 しつこく、こだわっているものはなんだろうか。何かを考えようとした時にまっさきに考えられていたかのようにそこにあるのに、いつでもそれとともにあるのにもかかわらず考えることをやめることができないもの。かんたんに口でそのままを言えばそれでいいのだろうが、かんたんにはできない。
今日も雪かきをしていた。雪だらけの中で雪のない景色を思う。しつこくこだわっていたようでいて、いろいろ考えているのだろう。同じ景色を見続けられないように、同じことは考えられないようになっているのだろうか。ほんとうにいやならば考えないのではないだろうか。言葉とは何なんだろうということにしつこくこだわっているのだが、言葉とはと問う時すでに言葉と明確に指し示している。昨晩風邪の治りがけに読んだ資本論の商品の説明で亜麻布と上着との間に横たわる=(イコール)が、くせものでこの記号は右と左に現実にはありえないものを並べることができるということがいつもわからなくてうんじゃらもんじゃらするのだが、わかるようでいて中々うんといえない。むずかしくてちんぷんかんぷんのフーコーの「言葉と物」の序説にも似たような話が載っていてことあるごとに何度も読み返すのだがわかりそうでいてわからない。わかったような気になっても再び読むときには違う文章を読んでいるかのように又一からやりなおさなければならない。その都度その都度わからないといけない。
中上健次の文章も一文と一文のつながりを追っていては全体が把握できそうにもなく、又全体から俯瞰しようにも一つの文章自体が意味づけを迫ってきているようで読んでて少しいやになるのだが、文庫本を手放さないのだからきっと好きなのだろうと思っている。中上健次は大好きなのだが、まだ「熊野集」しか読んでいない。正直言ってめんどうくさくもあるのだ。読む力がないのだろうが、強がらせてもらえるのならば、これらのわからない本たちはおれにこんなふうに読んで欲しいんだろうという気持ちが強いせいでもある。そこでは自分というものがかなり邪魔になっている。で、ほんとうにこだわっているつもりなのは、私とはという問いなのだ。でも問うておきながら、ここでもやはり、明確に私と言わされているのがいやだ。(私がおれでも、これでもかまわないのだが、一瞬にして言葉の問題にすりかわってしまうのもいやなのだが)
うんざりするくらいの雪をどかさないといけない時にうんざりを肯定も否定もせずに体が動いていることを感じる時に、ほんの一瞬、わからないと本当に言える時がやって来るような気になる時がある。でも一瞬の後に私は私を、そうそれでいいんだと私に言って全てを台無しにしている。ほとんど病気だ。

2012年2月18日

「へなま」の意味について

風邪をひいてしまいました。全身だるく、喉が少し痛いです。これぐらいの中途半端なか風邪は、ふだんならば怒ってしまうようなことにも怒る気力がなくなってむしろ平和です。これくらいの思うようにならないがいいです。能登半島の丘のような山、用水のような川、雨も風も人も中途半端で好きです。

【奥能登の研究―和嶋俊二】よりhttp://jusai123.blogspot.com/2012/01/blog-post_18.html
奥能登の農山村の各家庭で、個々に行われるその祭儀は、まことに繁簡区々であり、そのいわれや伝承についても異同が多く、いずれがその祖型なりや否やは容易に見分け難い。その点、皇室は日本の大家(おおやけ)として千数百年来(文献上の初見は清寧紀二年、厳粛に神秘的に行われてきたものである。それにしても応仁の乱で絶え、二百有余年を経て東山天皇が徳川幕府の援助を得て貞享四年(一六八七)復活されて今日に至ったものであるという。研究者の中にはこの大嘗祭空白期間がなんとも大きな痛手という。これに対して奥能登の「あえのこと」は、国家神道や荘園領主・武士などの政治権力の統括統制を受けず、ひたすら農耕民としての敬虔な信仰を、素直にうけついできたもので、ここには父祖の気持ちが生きており、それを通して日本人としてのアイデンティティーを自覚することができると信じるものである。

当地であえのことは必ず、絶対に二ユースで放送されますが、ものごころついてから最近まで笑ってばかにしておりました。N家の当主以外にもこの神事をなさっていたお宅もあったのでしょうが、いつも裃をつけておおげさに見えもしないものを12月に招きいれ2月に田んぼに送り出すのを見て、こいつバカじゃないのかと思っておりました。ごめんなさい。あやまります。確かに見える妄想を具現するのと、まったく見えないものを見えないままにしておくこととどちらが非科学的なことかと思う。古い行事を我々のこざかしい大脳新皮質だけで見てはいけない。古い行事の最たるものは、方言そのものではないだろうかと思う今日であります。

2012年2月16日

木々は芽吹きはじめています。

人の写真を撮ることがめったにない。思うに優れた写真家というのは高度なテクニックもさることながらいい写真が撮れそうなシーンに出会う確率の高い人なのではないだろうかと思う。運に恵まれて偶然いい写真ができあがることもあるだろうが、いいシーンに自らのファインダーを持っていく勇気とセンスが必要とされるのではないだろうか。私も含めて素人というのはいいシーンというのがかなり漠然としたイメージに過ぎず、光の量を差配する能力もないから、できあがる画像は漠然とした私そのものが投影されている寂しいものなのだろう。ましてや人見知りの私はそもそも人のいるシーンから逃げ続けているのだからアルバムには人がいないのはあたりまえなのだ。
よろみ村にはオリジナルなアーティストがいるのだが、彼らのことをブログやホームページにアップしようにも彼らに取材することができない。彼らの作品のオリジナルを他人に報知するにはまず彼らと出会わなければならないと思うのだ。恥ずかしいというより、優れた人の存在感はいやがおうでも、私というものを私のことわりもなく露にしてしまうのではと思うのだ。こうした思考回路はたくさんの経典の解釈にもおよんでいて、単に経典を読んで私はこう思うというプレゼンテーションではいけないという思いがある。まあ一種の逃避であり、愚図でもあるのだが。
中央の雄鶏は先代に比べて朝の告げ方が引っ込み思案。
当番で、ニワトリ小屋に久しぶりに来た。ニワトリはほんとにえらいと思っている。どのような残飯もきれいにたいらげてくれるし、中途半端な小屋のせいで侵入してくるテンに食われても生き残ったものは文句も言わないし、自分の生んだ卵までとられてもなんにも言わない。そのような完全に受動的な生物(しかも人間による人間のための人工交配の歴史がすごい)であるからか、彼らを見ているとなぜだか、自分の意識が明瞭にわかったような気になる瞬間があって怖いと思ったりする。そこではニワトリもワタシも消えて、自意識だけが明瞭に存在している。もちろん言語化されたここでは、もはやそのようではなかったかもしれない。
昨日の当番の時に出口のフックをかけわすれていて、もしかしたらと思ってニワトリの数を数える。いつも思うのだが、みな不規則に動きまくっていてなかなか数えられない。やはり、数を数えるというのは自意識にとってかなり高度な操作なのだなと思う。加齢による記憶力低下というのも最近、よく思う。
このアングルでの撮影は初めて!hukuda家盗撮^^

このアングルも。murata家盗撮^^

 さて、エントツはなんとか仮復旧しました。murataさんとezakiさんと三人でやったのだが、あなた写真撮影なんてできません。あるのはエントツだけです。




2012年2月15日

エントツ。

 屋根雪の落下で、風呂場のエントツが傾いた。薪でたく風呂場なので軒にくっつくようにして立っているのだ。煙道と首の皮一枚でつながっていて、かろうじて風呂を沸かすことができた。
街暮らしをしていたころ銭湯をやっていたので、エントツには思い出がたくさんある。昭和十年代に立てられたものを治し治ししながらやりくりしていたものを祖父から受け継いだ銭湯で、半焼に近い火事にもあっていて、焼き物の土管を積み重ねて鉄骨で囲んだ古いエントツはいつも気がかりだった。
一番こわかったのが台風で、台風が発生したとニュースで報道されるとそのことで頭がいっぱいになっていた。進路予想図をニュースごとにチェックして予報円が当地にかすろうものなら、土下座さながら台風がそれますようにと祈るばかりだった。平成のはじめに台風19号というのがあった。九州の北部から日本海の沿岸をなぞるように高速でかけぬけて各地に甚大な被害をもたらした。その時など銭湯を早仕舞いしてフルフェースのヘルメットをかぶって、家の周りから屋根の上までを何度も往復していた。何かをするわけではなく、ただ懐中電灯でエントツを照らすだけなのだが、ただ倒れないでくれと祈るだけだった。当時2才だった長男と妻は熟睡していてあの猛烈な風を知らない。
小さいころの記憶ではめったに台風など来なかったのだが、私が銭湯を継いでエントツのことを心配しはじめてから台風の通過や上陸が増えた。そして奇妙なことに銭湯をたたんで山にこもりはじめてから台風が当地をそれるような進路が多い。今は丘のような小さな雑木山のあしもとに家があり、台風クラスの強風でも風が通らない。
銭湯時代、台風が来る来ないにかかわらず、エントツの定点観測をやっていた。ただ決った場所に立って煙突に向かい合い、エントツが傾いていないか見るのである。祈るようにして見ているからだろうか、微妙な変化に気づく。鉄骨の梁が錆付いていてほんの少し太くなっているとか、瓦の土管の色がほんの少しはげたとか。毎日とはいわないが、ほぼ毎日、多いときには一日何回も、観測していた。客観的に科学的にあるがままのエントツを見るのだと真剣だった。
がしかし、今にして思うのだが、エントツは微妙に北側に真ん中より上は傾いていたように思う。そのことは観測当時もわかっていたのだが、それでは困るので結果を自分自身で捏造して、何の根拠もなく大丈夫だの一言で済ましていたのだった。(いまどきの東京電力とそっくり)職人としての自分は体で傾きを感じていたのだが、文学的な自分は自分に都合のいい筋書きを選んでいたのだろう。
2007年の能登半島地震でエントツの先端が壊れて鉄骨の枠でかろうじて落下を免れているのを見た時、たいへんだあと確かに思っていたのだが、同時にどこかで長年の心配が現実になったことで放心していたのも確かである。
さてよろみ村のエントツだが、幸い高さが2メートルちょっとしかなくて目をつぶっていても登れる。明日村田住職と修理の予定。

2012年2月14日

PTA会長になってしまった。

末娘の通う小学校のPTA会長になってしまった。全体で60人前後の学校である。末娘の学年も10人しかおらず、選抜対象者6人が集まって合議したのだった。(会長は原則として五年生の保護者から選ばれる)
やりたい人はおらず、合議の場をしきる者も不在で、雑談がポツポツとあるばかりの中。自分が最年長で、自営業でもあるし、などと考えていると「自分がやるしかないのではないか」と思う。四人の子供の最後の奉仕というような考えでもある。
思えば、人見知りが強く、大勢の人が苦手であるのにもかかわらず、なぜかそうしたポジションにあることが度々あった。思い返すと、中学生のころの野球部のキャプテンに始まって、ゴルフ場反対運動の事務局長、銭湯をやっていたころの組合長と環境衛生同業組合の理事、勝手に思っているのだが、よろみ村の常住(会計係)もこうした次元で考えている。
好きなのだろうか、無意識のうちにこうしたポジションへのあこがれがあるのだろうか。政治がすきなのだろうか。ほんとうにイヤなのに、自分の弱さやずるさがあからさまになってしまうのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。
いつもこうしたイヤさとつりあっているのは、もしもこうしたイヤさがなかったとしたらどんなにか人生はつまらないものだろうかという思いでもある。宿敵たる自分の弱さに語りかける。オマエがいなかったらここまで来なかっただろうと。そしていつでもわからないのはそこで言うところのこことはいったいどんなところなのだということである。

2012年2月13日

うんざり。

雪に埋もれたハクサイとダイコンを掘る。雪海原を見ると一回目のうんざり。尻をたたいて歩を進める。足が沈んで長靴の中に雪が入って二回目のうんざり。

まずはハクサイをめざす。去年、定植が少し遅れたせいなのか結球していないものが多く、目指すハクサイがどこにあるのかわからない。目印の棒が自分でつけたのにもかかわらず、あいまいなのです。ここで三回目のうんざり。何万年後の人類への目印を妄想すると、気が遠くなる。放射線注意の看板にはいったいどのような言語を使用すればよいのだろうか。とにかくハクサイを目指して雪を掘るしかないと再び、尻をたたく。

まだかよ、地面はまだかよ。とここで何回目かのうんざり。(すでに数えることを断念)
が、無限は我々の頭の中にしかなく、土があらわれ始める。(うんざりはいったいいずこへ?)

再び訪れる色の世界!

もはやうんざりすることにうんざりしている。次のダイコンへ向かう。ダイコンはハクサイとは異なり、地面から引き抜いてモミガラと土と積雪で冷蔵状態にあり、記号もとい、目印もちゃんとつけてあるはず。やはり明確な目印はすでに現物たる棒が不要となっている。(絶対的な記号として記憶されている)もはやうんざりな私にはそれ以上うんざりすることがないかのように足取りが軽い。
除雪車のつくった雪山。後方の棒は避雷針。
体も温もり、体がすでに雪堀のだんどりを記憶していて、なおも目印の棒、明確にして私はすでにうんざりではなくダイコンである。
一服。
マウス。で雪をクリック。
背負子でダイコンを運ぶ。30㌔はありそうだ。重たい体が雪に足をとられる。二回に分ければよかったと思うが、なんとかいけそう。と尻をたたき続ける。うんざりが尻を叩いているではないか。もうだめだと立ち止まりひざに手を載せてはあはあ自分の呼吸を聞く。目を上げると干したままの大豆が目に入る。白ばっかりに再び、色の世界が。ああスズメはよろこんでいるだろうなあと、柄にもなく思う。

私という現象(宮沢賢治)はあいかわらず、意識そのものと自然そのものとの間で漂っている。





2012年2月11日

マスードの戦い


詩は物語に加担してはならない

あらゆる文脈を拒否して

空白の空間をつくり

私にも私たちにも頼らないで

それそのものを表記する可能性をさぐる

行いそのもののコト

私は私たちより出でて

異物としての自分を表記する

それははじめより

不可能であることをこそ知れ




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カニ。

カニを食べた。正真正銘の輪島産とのこと。年をとるにつれて地元の海の幸をおいしく食べるようになったと言いながら、どうもカニだけはそれほどのものとは思えないのでした。
まだ生きている。



2012年2月8日

ぎんばさという響き

 妻が私の父から「ぎんばさ」(海藻のホンダワラの一種)を酢であえたものをもらってくる。その海藻は父の実家である皆月の浜辺にうちあげられていたものを父の義兄(私たち夫婦の仲人)がとってきてくれたものであるらしい。父は長男でありながら早々に輪島の市街地に定住したのだが、当時流行り出した魚肉ソーセージが地元の天然の海藻よりも大好きだった私にそうしたものをおしつけることがありませんでした。自分のあしもとにある、食べられるものよりも遠くで加工されたもののほうに価値があると思っていた私でした。
年のせいなのか、最近地元でとれた魚や海藻、その他の加工品を食べたりすると妙にうれしい。父の味付けは少々甘いのだが、それでも皆月の海や寡黙なおじさんのことが思われて気持ちのよい晩御飯となりました。

2012年2月6日

たくわんを出す。






漬物は、なんかタイムマシーンみたいで好きです。ただ塩やぬかや麹や味噌やしょう油や酢などに野菜やきのこを漬けておくだけで温度や湿度に応じて微妙なあじわいを見せてくれます。土を耕して、野菜の種をまいて、暦に応じて手入れをして収穫をして、今度は頭を使って天日で干したりつけこむぬかや塩の量を計算して最終的に容器にその全てを混ぜ合わせる全ての段階が最終的においしく食べる瞬間に記憶となって立ち上がります。そんな時のおいしいはそれ以上の意味を追い求める必要が全くない純粋なぼくの言葉であるのだろうと思います。

http://t.co/Z4RnRLvy  ダイコンの天日干し

http://t.co/0rtVjy2R   ダイコンを洗う

http://t.co/comawiXY  私のダイコン

http://t.co/MPdVVQ8T ダイコンを愛でる

屋根雪をおろす。

 一日中屋根雪をよけていた。最初は午前中ぐらいかなあと思いはじめる。いつだって終ったところから仕事を考える。力はまだ余っている。ふんこれくらいなんてものだ。がママさんダンプをうまく使えない。雪が予想よりぶあつくて、小屋が近くに隣接していて捨てるところもなくなったりして、思うように仕事がすすまない。考えている。いつのまにか意欲もなくなってきてめんどくささだけが先に立っている。それでも考えている。どうにかしようとがんばっている。腰や腕を休ませて、まわりを見渡せば雪だらけである。ぐちゃぐちゃになりながらも体だけは動いている。自分意思と仕事が一致することの少なさに驚くひまもなく体だけは雪を完遂しようとしている。息もあがり、腕力も衰えたなあと思うが、唯一この思いだけはまるで17歳の時と変わっていない。という思い自体が老化したかどうかは、この思いではわからない。
テレビで写真のように絵を描く人が描いた絵と写真を見分けるという番組をやっていたのだが、やってみれば、熟達の人が見分けることができなかった。みたいな感じで自分だからこそ、自分ではわからない部分を持っている。もはやそれは現実でもあるし空想でもあるし、又その両方でもないし、なんとも名づけることすら困難である。そのそれ、このこれと言っても、現代ではもはや詩にもならないただの音韻である。
何を言っているのかがわからなくなってもこうして文章を書き続けるようにして、又雪かきも終ってしまいました。ほんとにわからないということ、自分の意志が通じないものを絶えず抱えながらも人は日常生活を、毎日、毎日完遂している。自分の意志で何かをやるということは不可能なのではないか。人が動くということはものすごい奇跡的なことなのではないか。何かをやろうという意思と何かをしたという記憶の間で体が勝手に動いているのではないか。
わかるということのすぐ近くで闇が広がり、わからないといういことのすぐ近くで光が広がっているような気がする。わからないまま、わからないもの同士が同じ空気と時間を共有するということのありがたさを素直に感じていきたい。

カメラを持つのがめんどくさくて→わじゅさんのブログより拝借。http://blog.goo.ne.jp/wajumurata/e/1c96c0a8642a419bffdbe2140a24a339
一枚目の画像がJUSAIです。

2012年2月4日

雪祭り

北側の屋根雪はなかなかとけず、これまでの最高記録では五月の連休後まで残っていたことがありました。今年はすでに3メートルをかるく超えております。
二階です。
3びきの猫の出入り口が北側の勝手口にあり今日は雪かきをしました。

猫用。のれん付き。
最初は猫と、窓が割れないためでしたが、雪をかいているうちに、スロープの階段をつくったりして、遊びはじめました。

うんざりですが、ちょっと気分転換できました。体を動かすってちょっと神秘的ですね。大雪の災害が多発しているようですが、喜んでいる人もいるんじゃないだろうか。札幌の雪祭りが謹慎したりしないだろうか。

チョプ♂
ふんづまりの通路が通れるようになるのは気持ちがいいです。

2012年2月3日

お日様だ。

ひさしぶりに太陽が出た。陽を浴びやすい南側に移動して浴びる。体が求めたのだと思います。体が喜んでおります。室内でこもっていたオリヅルランの鉢も日向に移すと嬉しそうだ。猫もおんなじように南側の窓際でうっとりしている。非科学的なのかしらないが、野菜工場のレタスが浮かぶ。光を求めるのは自然の摂理ではなくて光そのものから生命が生まれているという事実からくるのではないだろうか。必要云々の話ではなく太陽あればこそのちょうどよさこそがわれわれの、いわゆる環境なのではないだろうか。まあとにかくうれしいのです。

わたし

オリズルラン

チョコ♀

と思っていたら、午後にはもうぶあつい雪雲がふたをするように別な環境になりました。緩んだ気持ちも、いやおおうなしにひきしまります。お天気おねえさんが「注意してくださいね」と言わなくても体は自動的に注意をするもんだと思います。毎年春先温くなってくると、真冬の寒さを思い出してやっぱり緊張していたんだなあと、しみじみ思うときがあります。そんな時にするうたた寝ほど体を癒してくれるものはありません。にしても積雪に閉ざされていると、このまま春がやってこないのではないかと思います。そう極暑の時に冬の寒さを思い出せないようにです。でもこれまでは、四季は必ずめぐっているのだからこれからもそうに違いないとたかをくくります。きっとそうに違いない。

ばばなき田んぼ(どこが田んぼなんだかわからない)

old yoromi village

よろみ田んぼ街道
夜、台所にて夕食の準備をしていたら窓に屋根雪の一部がかかり、あっと思うよりも前に目の前に美しい文様が広がり、ついでに九月に収穫したままのスイカを切る。もともと食えそうになかったのですが、やっぱり食えなかったがその赤色はまぎれもなく真夏の太陽でありました。













2012年2月1日

無題





いたやさん。ほぼ窓がふさがる。

上 グッチ♀ 下 チョプ♂

屋外においたままだった大根。凍ってますが、イケました。
しろかぼちゃ。なんと!おととしの夏のもの。イケました。

種をとるのだ。今年うえるのだ。


種。ゲーテは植物形体学も記していた!意識の構造がわずか200年ほどで激変したのではないか。
往時は現代とは違うアカデミズムの体系があったのだろう。そして、形而上学が形而上学として立っていたのだろう。