2012年11月29日

ここに全部書いてある。

From Evernote:

www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/sodan/cp5/index5.htm

Clipped from: http://www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/sodan/cp5/index5.htm

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 「登校できない状態」をいわゆる「不登校」と一元的にひとくくりにして、「不登校の理解と対応」などとして記述することはあまりに乱暴であり、子どもが発する「登校できない」サインの見方とその関わりについては、一概にこうだと言えないことの方が多いと思われます。子どもが「登校できない」状態には統合失調症やうつ病などの精神病圏の水準であるケースから、怠学傾向や友人関係での一過性のトラブルによるものまであり、実に複雑で多様です。ですから、教育相談の実際から得られた教訓的なことや教育的心理的援助の在り方について、それを普遍的なこととして記述するのはたいへん困難です。従って、「登校できない」というサインの見方、とらえ方については、「登校できない」多くの事例に一般化して言えることの、ごくおおまかで表層的なところまでの報告にとどめます。
 本ページでは、学校に行けない状態を、「学校には行きたい(行かなければならない)けど行けない」という心理的な混乱、あるいは心理的な負担過重からくる神経症圏内のケースに絞って考えてみたいと思います。
 
 
   学校に行けない状態       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

画像追加。 from Hagino san.

JUSAI 123: asami先生、ありがとうございました。


haginodさん撮影。統合問題の署名活動、記者発表。11月25日。

左から  朝日、読売、北陸中日、各新聞記者。  さらにsakashitaさん、juisai7  nakaura、1人おいて、yamagamiさん。

jusai8

2012年11月27日

拝 板谷さん。

こんなことばをはくのは、生まれて初めてなんじゃないだろうか。

「今日はひさしぶりに休んだなあ」

炭窯も冷えてきたし。yoromiの風呂焚き当番で、初めて新しく入ったニワトリも見ました。購入時にすでに、生後90日経っているので、赤ちゃんではない。が、ちょうど、思春期を迎えた中高生という段階か。幸い、おばちゃんニワトリたちも、静かに見守っているように見えました。
 ふと、板谷さんを思い出しました。彼は、jusaiがyoromiに入植してすぐに、ガンで亡くなられました。板谷さんを通じて、はじめて龍昌寺やよろみ村のことを知ったのです。初めての氏は、怒っておりました。怖い顔をしていました。しかし、その印象はすぐに消えて、優しくて、穏やかな顔やふるまいしか思い出せません。田んぼ仕事をしていても、亡霊のようにして、よくjusaiの意識に、その存在が現れてきます。
 今日は、itayaさんの仏壇(小卓に写真とチンとお酒が並んでいるだけですが)にお参りしました。




2012年11月26日

炭焼き9日目。

早朝、炭窯はエントツと焚き口や空気穴など目につく出口は閉じたのだが、窯全体からうっすらと甘い煙が立ち上っていました。原理的には酸素の供給を遮断して熱分解による炭化(勉強しました)を停止するというものですが、窯は石と粘土でできているせいなのか、毎度の修復が甘いせいなのか、煙が少しでも出ているということは炭化が進んでいるということなので、最悪の場合、窯止めの段階では、炭になっていたものが、燃焼しつくして灰になるということもあるらしいのです。
 炭窯の中は、開けるまで、様子がわかりません。とにかく、炭窯の全体を何度も見て、刷毛で砂状の粘土を掃き、露出する窯の肌を、さらによーく見て、穴あらば、塞ぎ、穴ありそうならば、やはり塞ぐということを、当番で少なくとも、5日間実行する予定です。燃焼や炭化といった現象は科学的なものであるのでしょうから、つまりは、絶対的にそのようにすれば、そのようにしかならないものなのでしょうから、人の不手際を露わにいたします。
 一回炭を焼いただけなのに、思ったのですが、炭窯は雑木山のふもとにあり、粘土と石だけでできている。原料の生えている近くに、原料の近くから見つけた土や石でつくった空洞を、やはり原料にならなかった部分を燃やして暖める。結果として、原料からたくさんのものを分解して、最終的に原材料の炭素の純度を上げてつくるということがわかった。さらに、原材料は20年ほどのサイクルで再生するということ。今回は遠くから原材料を運び、チェーンソーも使ったから、えらそうなことは言えないが、ようするに、何が言いたいかというと、身の回りのもので全てが完結しているなあと思ったのです。
 が、あたりまえのことに対して、もっとも障害になっているのが、こうした自分の思いであるような気も同時にしたのでして。今も、炭窯の中は高温で、燃焼もとい、熱分解による炭化が現在進行形でして、同時に、炭窯に集った方々の記憶は、いかに鮮明であっても、それは過去なのでして、時間の感覚も、炭窯から立ち上る煙が揺らぐようにして、揺らいでいるのですが、炭焼きの時間の全てを含んで、今も炭窯の表面は温い、まるで生きているようにしてどかんとそこにあるのです。

追記

 昨日の記者発表の件
    朝日、北陸中日に掲載されました。読売、北国は当該発表は掲載されませんでした。

2012年11月25日

asami先生、ありがとうございました。

炭窯の中を想像するしか手がない。中の変化を表示するのは、かろうじてエントツから立ち上る煙の温度だけである。エントツを含めて全ての穴をふさいだ現在、いよいよ、想像だけが頼りである。酸素の供給を断たれて沈静に向かってはいるのだろうが、800℃近くの高温ゆえに、ほんのわずかな空気の漏れでも、すべてを燃やしつくして、来月初旬に、いよいよ、炭出しで内部を初めて、見た時に中が空洞であることもありうる。
 多くの人がかかわりました。トトロのような生き物のように炭窯はありました。窯の上に乗り、表面をなぜ、泥で補修し、また、窯の前面にて、ただじっと見つめるばかりのたくさんの時間がありました。
 しかし、まだ中は燃えております。思い出にひたっている時ではありません。今になって、全ての資料や図書館から借りた参考書を読んでおります。ふんとに内容が素直に入ってまいります。炭焼き行事は、最後の大切な仕事が残っております。これまでの記録を整理して、今回の炭焼きの経過を、原木の調達段階から記録しなければと思っております。個人的な感動が強かったので、わかりにくいものになりそうな気もします。
 武田泰淳の「司馬遷」という小説がありまして、司馬遷が、その時、その王朝で何が起ったのかを記録する際の基準がかなり特殊であることが書かれてあります。これはとても大切だろうということが省かれ、どうでもいい立場の人のどうでもいい灌漑が書かれてもあるそうなのだ。いかにして、後世の人が読んだ時に、正確に、何が起ったのかを理解するための策なのだそうだ。でもわかるような気がします。(ほとんどわからないけど)司馬遷自身の恣意性を絶対に省こうとしたのだろうと思います。
 mii小学校の炭焼き資料を読んでいると、炭焼きの成功度合いに反比例して、資料だけは華美になっている。ほとんど炭が取れていない年の温度記録表は、エクセルの表示機能をフル稼働してあります。反対に、やる気と能力の豊富なPTAや先生のいた年代は、非常に記録が事務的であり、手書きの温度曲線であります。しかし、とれた炭の量はすごい。同じ窯を前にして、年代によって、その活動の温度が違う。


 今回は、正直言って、asami先生なしには考えられませんでした。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。同じ炭窯のめしを食うではないですが、いろいろ雑談に花が咲きました。なんといっても驚いたのは先生が野球部であったことであります。jusaiよりも3つ下ですから、そんなに離れていない。jusaiはあまりにも下手なので高校1年で辞めたのですから、先輩という感じはないのですが、ふと、いろいろ思い出しました。学年によって優劣が生じるのは、しょうがないのですが、jusaiの年代は黄金世代に挟まれて無残なものでした。1年上の先輩にとても厳しい方がおられて、jusaiが中学校の主将になった時にその姿勢だけをまねて、けつバットなるものを後輩にしたことがあります。今でも怖かったという2年年下の方がおられるそうで、3年下のasami先生がおっしゃったこと、「ああ、けつバットはよくやられました。その流れでやられたんですね」ああ不用意に先輩から続く雰囲気を、そのまま継承してはいかんなあと強く思った次第です。

今日はPTA行事にて、輪島市教育委員会主催の発表会がありました。会の前に、新聞記者を招いて、中学校統合見直しの署名開始を有志で発表しました。明日、載るでしょう。ずっと、校長先生と雑談をしていました。PTA会長さんやあ、炭焼き行事、来年どうする?なんだか、おれの一存にかかっているようになってしまった。炭焼きは。(炭窯を作ったのは現、教育長!)



記者発表。左から二人目 haginoさん。このムーブメントのけん引役。

資料。 左  教育委員会(荒い)んなもん、ネットからコピペでもしたんかい。  右 haginoさん(精密)

 
追記

 教育委員会発表会にて、わが母校河井小学校、松稜中学校、輪島高校の研究発表があったのだが、輪島高校の先生は、jusaiがいびって野球部をやめさせた方でした。彼は忘れたかもしれないが、私は忘れてはいない。冬場のランニングで、あまりにも遅いので、引っ張って「ほらわれ、はよ走らんかい」とやったのであった。その次の日やめたのだ。彼が、統合問題にふれて、輪島高校と輪島実業高校の統合はうまくいっているので、中学校も大丈夫みたいな言い方をしやがった。いまだに、うそばっかり言うとるんかいと思ったのだった。ちょっとひがんでるかな。













2012年11月24日

炭焼き7日目。窯止め(一応、終了)

24時間体制というのは、日付感覚を変えてしまいます。あの時、その時の日付がパッと出てこないのです。(単に老いただけか)


00:00    炭窯の温度が急上昇する気配がないのと、sendai先生がずっといてくれると、言う         ので、帰宅す。気持は早朝に行けたらなと、コタツで、とりあえず休憩。


トトロのモデルは炭窯だったのでは。sendai先生熟睡。

8:00     起床^^;




10:00    炭窯 温度 332℃   停滞する。この窯はこういう性格なんだと、意見が一致。不        定期で心配をかけるのだが、気付いたら、それほど理想曲線から遠くないところに
        いるみたいな。


12:00    炭窯 温度 340℃  asami先生午後3時30分 350℃を予言。
        否、ご宣託。他校から来ている気苦労を含め、今回の炭焼きでのポジションを考
        えれば、大げさではありません。(さらに、先生はこの窯にて、たくさんの失敗を引き        受けてらっしやるのです)



メダカ学校は~

職員室にて炭焼き研究。(長女の卒業DVDの中に炭焼きの動画あり)

 校長先生や、sakadeさんご夫妻、も来られて、いよいよの、窯止めへのカウントダウンが始まった。

校長先生 焚火を前にして子供にかえる。


15:30    炭窯 温度 351℃   直ちに、窯止め作業に入る。
                      焚き口とエントツをレンガや大石、および、粘土で塞ぎます。
                      空気が、ほんの少しでも漏れていると、炭化が進行して灰に
                      なってしまう。


メダカの学校はぁ
川の中。

そっと覗いてみてごらん。

そっと覗いてみてごらん。

みんなで

お遊戯。

了。しているよ。

17:00    窯止め作業終了。   今後の打ち合わせを兼ねて、職員室に。早くも、炭だしの予                      定を考える。時間割とカレンダーを眺めながら、最適の日を
                      割り出す。やはり、業界用語っぽい言葉もあって、わからん。
                      全ての先生がというわけではないのだろうが、こうして長い                       間、いっしょに炭焼きをしたからでもあるのでしょうが、先生
                      という職業も現場系なのですね。全てがデスクワークではな                       いのですね。

18:00    今後、3日ほどは、炭窯のもれ穴の補修を、厳戒することを再確認、当番表を作成。
        asami  taniguchi  kakida  nishikawa。が分担す。予定より、1日ほどの遅れで終了。
        (もれ穴を放置して、全てが灰になることもあり)


23:30    炭窯の補修で、なかなか、帰るタイミングにならず、やっと帰宅。(炭窯を立ち去り難        かったかも)

子供ら、すまんなあ。

おじちゃんが一番楽しかったよ。

2012年11月23日

炭焼き6日目。


窯止めに備えて、石を運ぶ。

粘土も探す。 お墓のあたり。 やっぱりここは掘っちゃダメか・
龍昌寺のお墓。炭窯に似てる・


紅葉ピークか。 左 勉強会田んぼ。 右 お墓への登り口。



10:00  179℃  kakida、sendai両先生、すでに炭窯の補修で、窯をなでている。

haginoさんから中学校統合の署名などに関しての電話あり。ついでに、土に造詣の深       い氏にええ粘土はないかと聞くと、今から行こうと即答。袋詰めも手伝ってくれる。非常      に動きの速い人だと、さらに思う。土は某家の土蔵補修で余ったもの、場所は秘密^^

12:00  210℃  エントツ、焚き口、ともに3/5にしぼる


炭焼きへの愛は

先生、PTA、年齢、性別、運命他の全てのカテゴライズを吹き飛ばす。

18:00  240℃  asami先生とともに帰宅。


おもしろいお話をありがとうございました。

20:00  270℃  自宅にて
                            一人炭窯をみているkakida先生から電話連絡。

                                                                       いよいよ、精錬という段階に入る。

 さて、炭窯にでも行くか・・。

2012年11月21日

炭焼き4日目。理想曲線に復帰!。

20時間ぶりの理想曲線復帰の瞬間。sendai先生。ほんとにうれしそうでした。
  昨夜というか、今朝というか、午前25時というか(24時間無休だと表記しにいくい)、21日午前1時に、炭窯の温度が73度代との連絡をご父兄から受けて、炭窯に行く。温度はお願いが通じたのか、77度台を計測する。焚きなおしだと思っていたのだが、もうちょっと、様子見をする。5回ほど、温度計測をすると、だいたい、75度台を上下しているようなので、帰る。点火がふりだしに戻ることがなさそうだ。朝8時過ぎにkakida先生からも、同じような報告を受けたので、よほど、下がらない限り、様子を見ましょうと伝える。asami先生に電話をして、尋ねると、以前にも48 度まで下がったことがあり、焚きなおしをしたことがあると教えられ、少しほっとする。
 日雇い仕事を終えて、炭窯に来たのは、18時をこえていただろうか。時間の経過がとても速いような気がする。時間はカマダキの最中はこのように進みそうだ。さて、kakida先生の第一声が聞こえる。「78・…度」。このまま様子見でいこう。ダメかなと大丈夫が同居している。友人のhataoさんに電話すると気持は焚きなおしに傾く。
 いつの間にか、asami、kakida両先生と、jusaiの3人で、炭窯の本体から煙を出しているところに粘土をぬっていた。粘土を少し持って、片手で炭窯の体をなでているみたい。asami先生が炭窯においでると、余所の小学校の先生という感じを忘れている。というより、炭焼きが好きなんだという姿勢しか感じない。「複雑な心境です。たしかにやっていて、楽しいです。が、虚しさがあるんです」形式的な責任は負えないのに、実質的な責任をかぶられているのである。
 yoromiの子供たちのほとんどとかかわっているので、小学生の往時知っている。yoromiの子供たちの様子の話になり、一人一人をjusaiの知っている限り、まとめて話すとほんとうにうれしそうでした。もう、佳境を迎えている炭窯を前にしては、先生とPTAなんぞという関係性が消えていくような気もしました。あいかわらず、手は粘土を持って炭窯をなでている。煙の様子をちらちら見ながらも。やっぱりだめなのかなと、もしかしたら大丈夫かもしれないが、ぼんやりし始める。
 職員室で休憩することになる。雑談になり、ふと、大学生の時に、少し付き合っていた女性の消息を聞いてみる。小学校の先生になって、市内にいるのだろうとは思っていたのだ。教頭先生になっているそうだ。ふげえ。もうそんな年齢なんだな。俺らは。もうじじいなんだな。点火もせずに終わるのかと、炭窯の現在とリンクするのであった。灌漑にふけっていると、asami先生が炭窯をもう一回見てから帰るというので、一緒に皆して、職員室を出ると煙の匂いが、濃く感じる。新たに加わったsendai先生が、温度を測ると、80度台を計測したのであった。asami先生とjusaiはハイタッチで喜びを分かち合ったのであった。
 こうして一日をたどっていると、窯止めまでは、決して安眠できんなあと思っている自分がいるのでありました。
                                                つづく

2012年11月20日

炭焼き3日目。&統合協議会6回目。


エントツから出る煙の温度が64度を上下するばかりなので、午前3時、焚き口を開く。2/1。瞬時に温度が68度近くに上昇。理想温度70度をキープするようにとのメモを残し帰宅する。熟睡できず。午後4時に再び炭窯に戻る。(おー責任感)77度になっており、いよいよ点火が近づく。
 kakida先生やsendai先生がひんぱんに来られる。両氏ともに炭焼きにはまってくれた。今日は、中学校の統合協議会の6回目が午後7時半にあるが、そんなものにかまっている気持がない。あのような大衆演劇で役割などこなせるものか。が、行く。協議会の会長と教育委員会に遅れると電話する。保護者へのアンケートを実施した現在、このような行為も、もしかしたら、戦略的な動きととったりもするだろう。炭窯はその点、人の意図どおりに呼吸しているかのように静かに燃えている。のだろう。中身が見えないし、初体験ということもあって、想像するしか手がないが。協議会はあいかわらず、へたなシナリオをド下手な役者が演じている。なんで決まったもんを今さら、反対するのか。しかし、おれも人のことは言えんなあ。決まったことに少しでも疑義を持つことを許されないのならば、ワタクシを罷免(んな、おおげさな)してください。と言ったのだった。統合問題の最終責任者はいったい誰なんだ。そいつが、協議会委員を罷免させる権利を持つのだろうから。にしても、炭がまの温度が気になってしかたがない。
 炭焼きの匂いがしている。スーツ姿の並ぶbunka会館の一室にさぞや、場違いを感じていることだろう。民主主義では、こうした後戻りの事例はたくさんあるじゃないですか。と言うと。ぼそっと、そんなおおげさな、と嘲笑されたのであった。おかしいと思うものをおかしいと言って何が悪い。炭窯は、お前のその、一手はおかしいぞと言っているかもしれないが、何も聞こえなから、炭窯から見たら、民主主義を笑う田舎もんとたいして変わんねえけど。
 そそくさと協議会を後にして、ぶっとばして、三度炭窯に戻ると、mii小学校炭焼き委員会(ここでも会だ)の執行部のtugumiさんとkakida,sendai両先生、それにtaniguchiさんが集うている。温度が点火目安の80度に近付いているのであった。1時間ほど、炭窯を前にしてぼそぼそと話し合う。残念ながら炭焼きのシナリオを描けるものがいないので、会話が散発するしかない。下手なシナリオでもあればどれほど救われるか。頼りになるのは温度変化の様子が描かれた理想曲線とかすかな経験者の過去の点火前後の記憶だけなのであった。
 なんとか82度になったので、規定どおり焚き口をふさいだ。あとは温度管理だけだなと参会する。さて眠ろうか思っていた今、当番の方から電話があった。温度が73度。やばい。このまま下がる気配だ。考えられるのは炭材が太くて、点火が継続しなかったのではないかと言うこと。しかたがない、ふさいだ焚き口を開けて、もう一度、薪を焚きに、四度、炭窯に行くしかない。日付はとうに、変更しているのであった。

2012年11月19日

炭焼き2日目。

 日雇いにて、中能登と奥能登を往復する。今日の親方は作業員ではなく、事務方の課長さん。怒ったことがない、もしくは怒れない、もしくは、怒り方がわからないのではないかと思われる優しい方です。今日は移動距離が長いので、車内の会話も、能登の将来はどうなるんだろうかというマジメな話にもなりました。
 「調べたんだけど、能登の過去10年間の人口減何人やと思う?」
3万人もいるらしい。しかも自然減以外のほとんどが、団塊Jr.なんだそうだ。monzen,anamizuだと、現在65歳以上が過半数を越えて、3分の2に迫っている。ちょうど、現場が志賀原発のそばで、もしも、再稼働しなかったら、壊滅的になるんじゃないかという話にもなりました。


富来。外浦は波風がすごい。
炭焼きの火は今、どうなっているのだろうか。携帯電話を持たないので、情報を得ようにもできずに、急激に温度が上がってしまった状態と温度があがらずに、ほったらかしにされた両極端の炭窯を妄想するしか手がありませんでした。こんな日に限って、仕事の上がりが遅れ、炭窯に到着したのはもう午後8時をまわっていました。学校の駐車場に車を止めて、体育館横の細道を歩くと、煙の匂いが全くしません。近づいても、裸電球の明かりが見えず、真っ暗です。ただちに、あわてて、「ダメで、窯を閉じたのか」と思いました。
 しかし、mii中学校のグラウンド側に入ると、明かりがついておりました。とにかく、温度だ。早朝寄って以来、13時間経っている炭焼き小屋は、初めてきたかのように、椅子がふたつならんでおりました。その上に温度を書き込む棒グラフとasami先生の残されたメモが置いてありました。
やっぱり来てくれたんだ。温度変化の様子と炭窯の焚き口とエントツの入り口をこれまで以上に絞ったことが簡潔に書かれてありました。一人でたたずんていると、sendai先生と、kakida先生が順番にあらわれました。hataoさんのブログから聞きかじった炭焼きの知識と心構えを、生意気にも講釈してしまいました。真剣に聞いてくださってありがとうです。体感したこともないことなのに、話していると、その最中に自分でも自分の講釈に聞き入っております。暗中模索ながら、炭窯はほぼ順調に温度と圧力を上げている(と思いたい)明日はいよいよ、炭窯の中の炭材が、自ら燃えはじめる点火の瞬間を夕方ごろ迎える予定です。わからないながらも、ほんのわずかずつ、知りつつあるという感じがたまらなくよいです。
 帰ろうとしたら、炭焼き委員長の(別に責任転嫁をするつもりはありません)taniguchiさんがあらわれ、どうしてこんな責任を持つのかという疑問がほとんど消えて、心から炭焼きを成功させたいという思いが伝わってきます。炭窯滞在中、薪入れ当番のimaushiさんとhashimotoさんもやってきて、雄弁に、そして寡黙に、炭窯を見つめておられました。炭窯はとにもかくにも、呼吸しているかのように静かに燃え続けています。


19日 6:30 67度 1時間に10度近く上昇。焚き口とエントツを絞る。ふうっ。20:00. 64度。じ

先生方、なにとぞ、よろしくお願いします。

2012年11月18日

勉強会2日目。&PTA炭焼き初日。

 無方さん、は言ったそうだ。資本主義はこれから制度としてはダメになるだろう。そうした時、yoromiの在り方は新しいモデルとなるのではないかと。安泰寺の専門道場としての性質上、妻帯しているのは、堂長である無方さんだけなのだが、家族単位であるyoromiの方が有志があつまりやすいかもしれないと。
しかし、修行のために来るという直接的な来山者よりも、村田住職の魅力に引き付けられる人が多い、という現象も生じ、それらの魅力を持った人がいないとどうなるなのだろうとも。
 jusaiも、常にmurata住職が死んだらどうなうのだろうと思っております。水道やら米作など、murta住職がみえないところで、やっていることがたくさんあると思うからです。この点に関しては反面、トラブルが起こった時に、例えば断水などの時に水道管の配管がどうなっているのかを、知らないと途方に暮れる、という別角度の問題も生じると思います。
 記録しておけばいいという簡単な問題ではないと思います。もちろん、記録は有効ですが。
太すぎる炭材をクサビを打ち込んで割る。

asami先生。


並べられた炭材。

なにがいったいどうなっているのやら。

とにかくケガだけはしないでください。

うーmm。

現場を仕切れる親方がいない。

とにもかくにも、燃やせば、いいんやろ。

火入れおわる。一人になる。

 以上、erikoさんから聞きかじったことから、書かせていただきました。さて、炭焼きの火入れ、一応できました。よかったあ。文字通り、前年までの炭焼きの体験談の聞きかじりの知識でした。幸い、asami先生の存在あればこそです。スケジュールの間をぬって、朝と夕方、炭焼きに実働部隊として参加してくれました。ちょっと鼻声で、風邪をひかれたそうですが、午後7時を越えて、お帰りになる時、「炭焼きの間だけは、寝込まないでくださいね」と半ば本気で無理強いしてしまいました。どこの世界に、他の学校の先生が、こんな大変は行事に、われわれを指導してくれるだろうかと思うと、感謝の言葉もございません。この場も借りて、厚く御礼を申し上げます。成功体験の記録が残せればよいのですが。それにしても、いかなる場所においても、人が集う限り、親方の存在は計り知れないほど、大きいと思う。

2012年11月17日

勉強会1日目。(典座教訓)

 例年、1月から2月の冬場にやる勉強会が、この時期に行われた。講師は、安泰寺住職のネルケム無方さん。ドイツはベルリンの生まれで、座禅と本国で出会い、師と場を求めて日本にまでやって来られました。ドイツ人であるとか、日本人であるとかはもう言わせないほどに仏典を読みこなし、イントネーションになまりがあれども、話す日本語は、日本人ネイティブの私とは比較にならないほど、正確無比であります。
 安泰寺は曹洞宗の大学である駒沢大学の講師を兼ねたお坊さんが、純粋な修行道場をつくるべく建立されました。無方さんが住職に至るまでの顛末は師自身が編んだテキストを読んでください。安泰寺HPからたどりつけます。その生涯の厳しさは半端な私からは想像を絶しております。
日程のせいかしら、勉強会参加者は10人でした。少数の車座にて、いつもと雰囲気が違ってはいましたが、無方さんの全身からは、純粋修行道場たる安泰寺で時代を越えてなされている厳しい修行生活の匂いがいたします。
 勉強会の主題は、道元禅師の編まれた「典座教訓」。台所での所作、と心構えが細かく書かれています。たくさんのお坊さんの食事を準備することから、修行の場での集団生活の在り方にどうしても話がゆき、共同体の存立条件にまで思いが至ります。なぜ、世間から孤立して、そのような場が必要なのか、隔てられて、区切られている場ゆえに、かえって、世間との、社会との関係性が際立ち、公式、非公式にたくさんの定義付けや概念が生じざるを得ないのです。
 厳しい仏道修行的な行いが、ほとんどない龍昌寺とはいえ、世間から離れている場の性質上、やはり、世間との関係性は常に厳しく問われます。私はそうなんです。このような場でどうあるべきかという概念付けが絶えず心の片隅を占めております。無方さんと会うと、特にそのような思いが心の片隅から前面にせり出してまいります。
 2日目の話題は安泰寺と龍昌寺の共同体としての分析をテーマにされるということですから楽しみでもあり、ちょっと不安でもあります。不安というのは、そうした外の、しかも専門道場の道長さんによる龍昌寺の姿があからさまになる予感がするのです。そして、当然のごとく、yoromiに暮らす一人一人の様子が素描されるのではないかと思うのです。
 しかし、明日は、炭焼きの火入れにて、欠席です。残念至極でもあります。

左 ネルケ無方。 右 村田和樹。


masayaさん。

murata keikoさん。

fukuda sumikoさん。

左から hatao jian   kobayashi jin   hatao hitosi。

講義終了後の語らい。

itaya harumiさん。