2011年8月22日

フィールドワーク




 田んぼほど政治的に区画されたフィールドはない。自然の中で自然の一部のような顔をして、うさんくさい場所だ。江戸時代役人の給料の基本単位にまで登りつめたお米は抽象化されて、石高だけが田んぼというフィールドの性質を指標するようになり、同時に米を育てるという現実の機能さえも忘れられて尚古き善き日本の象徴にまでされてしまったのだ。
 今の日本人は古き善き時代の田んぼに思いを馳せてただ泣けば全ての過去が水に流されるだろうと思っているのだろうが、それでは田んぼを美くしく見えるまでに実際の農作業を続けてきた先輩たちの恩にむくいることは不可能だろう。
 耳をすまして何百年前の稲穂を夢想し、田の隅々に目をこらして何百年前の村の風景を夢想するには実際に田んぼの畦まわりをオロオロ歩き(宮沢賢治はあんまり田んぼには入らなかったのではないか)、田の中のドロに足をとられながら、なんでこんなに草が多いんだと喚くことが近道だ。 
 田んぼなんて、人がつくった恣意的な区画に過ぎない。