2011年7月4日

田んぼの神様



どうにか田んぼらしくなってきた風景を横目に目の前の草を刈る。取捨選別なしに田んぼの内外の稲以外の植物を消す作業に田植え以来ほぼ一月を暮してきた。稲のために、稲のためにと変質者の目で田園の中をうろちょろしてきた。が、我が目は稲だけをしかと見ることができずに、おどおどと水を田んぼに入れ田んぼの土が露出しないようにと水位を一番にしか見れなかった。
田んぼによっては、持ち主の家がそばにあったりして庭先の小さな畑をやっているように見えて水をいれようとする私に田んぼにはじゃばじゃばと毎日水をいれてはならない光線を発してきます。(ほとんど病気の世界です)私は私の信念で水温よりも、あるいはそうした慣行農法よりも深い水があることをなにより優先しますから両者はあいいれることはありません。さびしいです。
他の田んぼでも同じように(ほんとうに善意で)勝手に水の入り口をふさいでくれる人もいます。この時期は水を干している田んぼがほとんどですから無理もないのかもしれない。がやはりさびしい。
新規参入(でも30年は経っている)で、村の行事(もう、そんなにない)にまったく参加していないのだから構造的に異物のようなものだ。
顔もほとんど覚えあい名前もほぼ一致する関係性は育っているのだから出会えば、会話も弾んだりするのだが構造はいかんともしがたい。
今日は神社の前の田んぼの草刈をした。私のような異物からすれば、最もあこがれるべくして存在する神社である。荒起こし以来草を刈っていないから草は散々に緑を誇っている。ヒメジョオンの白い花の群れの中にわざわざ植えてある赤い花が咲いている。名前はわからないが、思い入れをいっぱい受けて咲いている。雑草と思わなければ、それらの雑草(名前のわからないのが多いので)は美しい。茎の数を徐々に増やして揺れる稲の整列よりも美しいと思えたりする。いや稲も雑草もみんなひとつの風景と思うだけで目に見える全てが美しい。稲と稲以外、古くからの人と新しい人、科学的な信念にもとづいた知識による農法と先祖代々伝えられた実践による農法、もっと例示するならば自分と自分以外というたくさんのわけへだてる行為から逃れられるのではないかという希望を感じる。
その時私は近くにいるじいさんやばあさんと仲良くなっている。なぜならばこの喜びが覚めないうちにこの喜びを誰かに伝えたいと願っているからだ。田んぼの神様はそのような妄想にあけくれる男をやさしく見守ってくれている。