2011年2月28日

勉強会(2/26,27) 講師は佐野明弘さん




真宗のお坊さんである佐野さんに来ていただき、親鸞さんのテキストをもとにお話をしてもらいました。親鸞さんがひたすら念仏をしなさいと言い残されたおかげで、言葉にまみれた現代人のわれらはモクモクとイメージの花をさかせます。何かを学びたいから必死になって何かをつかもうとするのですが、どこかでそのわかりたいというからくりそのものがひっくりかえされてしまいます。ひきつけられるのにもかかわらず、ただ門前でたちすくむ夏目漱石のようでもあります。わからないとうんうんとうなる静かな時間が流れます。何か言葉で埋め合わせたいのですが次の瞬間に自分の身体そのものがひっくり返りそうです。
しかし、容易にはひっくりかえらない。自動システムのように勉強会のタイムリミットだけが、とりあえずわたしたちの過去と未来をつなげます。容易にわかるものなんてたいしたことがないと佐野さんは言い切ります。それを聞く私は一瞬、身をそのことばに委ねようとしますが、思考はそれをやはり一瞬のうちにはねのけます。まるで自分の思考が言葉の根本を知っているかのように。そんなからくりに満ちた自分から逃れたい、言葉や意味の世界から出たいと思うこと自体がすでに思考であることを思い知らされます。
真宗聖典という東本願寺発行のテキストの中にたくさんのお話が載っています。その中のあるシーンが佐野さんによって語られました。 人間はくさくてかなわない、その匂いを嗅いだものは発狂して死んでしまうほどの匂いなのだそうだ。笑ってすまされそうなお話なのだが、どこか怖い。



                             

2011年2月9日

ホネオリゾンノクタビレモウケ








太郎はまだ気がつかずにのんびりと白菜を掘っていた。







鶏小屋を横目に見ながら夕闇を背に家路を急ぐ太郎であった。



自家水道が止まってしまったのだった。太郎は隣人たちと原因を探り、すぐに原因を見つける。
水は出た。太郎はふたたび、なんとかなると思った。





太郎はふたたび白菜を掘っている。かんたんには出てこない。どうにもならないことがあるのかもしれないと思ったが、白菜は出てきた。どうにかなるものだと太郎は思った。しかし出てきた白菜はとても小さくて玉になっていなかった。太郎はこんなにがんばったのに損をしたと思った。